コラム第29回
続・私が住んだところ(その2)
-ワシントン、ベセスダ、サンフランシスコ-
2024年7月22日
早 水 輝 好
最近のコラムは、2か月ごとのローテーションを守ろうと偶数月の最後の週に何とか原稿を上げていたが、6月はできなかった。台湾への出張が入ったからである。コロナ明けの初めての海外で、4年半ぶりだった。この間に手続きのオンライン化も進んで以前と勝手が違うことが多く、結構気を使った。台湾は時差も少なく飛行機に乗っている時間も短いのだが、やはりパスポートを持った旅はそれなりに緊張するものだと改めて思った。
私の最初の海外旅行は26歳の時の新婚旅行で、行き先は家内の希望で中国だった。この時は基本的に団体行動だったこともあり、今思うとあまり緊張していなかった気がする。
仕事は環境庁採用後、国内政策の担当が続き、たまにある海外出張も上司の管理職か補佐が行くことがほとんどで、若い私にまでお鉢がまわることはなかった。
そんな中で、環境問題の国際化が進んで環境庁に地球環境部ができることになった。このまま海外の経験もなしにいきなり地球環境部に行けと言われても困ると考えた私は、半年間の人事院短期在外研修に応募することにした。あいにく応募直前に異動になり、着任した課で迷惑をかけるのではないかと迷ったが、当時の課長も同じ研修経験者で、「後は留守部隊で何とかするから行ってこい」と後押しされ、幸運もあって(コラム第13回参照)何とか合格、1991年10月に家内と4歳、10か月の2人の子供を連れてアメリカに渡った。入庁9年目、海外出張もなしにいきなり家族連れの海外赴任で、緊張ぶりは半端ではなかった(コラム第11回参照)。
まずとにかく住むところを確保しなければならない。研修先は首都ワシントンにある米国環境保護庁(US EPA)だが、ワシントン自体はWashington, D.C.(ワシントン・コロンビア特別区)と名付けられた小さな町で、住宅地はその周辺のメリーランド州やヴァージニア州に多い。以前この研修に参加した人の情報をもとに、大使館に派遣されていた先輩にも助けてもらって、メリーランド州ベセスダのChase at Bethesdaというアパートの一室を借りることにした。
運転免許を持っていなかった私にとって、地下鉄の駅に近いことが不可欠であり、また4か月程度しか借りないので、少々高額でも家具付きアパートがよいと考えて選んだ。ところが、実は窓が北向きで、そのすぐ前に隣のアパートがあることに契約してから気づいた。内覧した日は霧が出ていて窓の外がよく見えず、またどちら向きの部屋か普通は考えるはずなのに、そんなところにまで頭が回らなかったのである。
後で聞いたが、欧米の人は日本人と瞳の色が違うため明るさの感じ方も異なり、北向きの暗い部屋でも差し支えないらしい。部屋の照明も蛍光灯より上向きのハロゲンランプスタンドによる間接照明が主力だった。(ハロゲンランプスタンドは不安定この上なく、入居後すぐに次男が倒して壊し、電球を買いに行く羽目になった。)
4人家族なので本来は2ベッドルームが必要だが、賃貸料が高くなる。実際に借りたのはワンベッドルームだった。簡易ベッドとベビーベッドを貸してくれたのでそれで乗り切ろうと考えたのだが、さすがにベビーベッドはもうすぐ1歳の次男には小さすぎた。このため、ダブルベッドのマットレスを床に降ろして、ベッド本体とマットレスの「二段活用」で乗り切ることにした。週1回お掃除のメードさんが来る日には、元に戻して知らんぷりを決め込んだ。
当時のワシントンはホームレスが多く治安が悪かった。EPAは当時官庁街から離れたところにあり、最寄りの地下鉄の駅からも少し離れていた。研修期間中に地下鉄の新線が開通して近くに駅ができたが、それまでは、夕方は駅までのシャトルバスを使うか集団で歩くことが奨励されていた。住んでいるベセスダは治安がよさそうだったが、そもそも車を皆使うので歩いている人自体少なく、なるべく定時に帰って夜は出歩かないようにした。
冬は比較的天気が良いが結構寒く、雪が積もることもあった。親は厚手のコートを買い、子供たちにも暖かいジャケットを買い与えた。せっかくだからと長男は近所の教会にある幼稚園(Day Care Center)に入れたが、親が送り迎えなので、車のない我が家では家内が雪の日に次男をおぶって迎えに行ったこともあった。
子供の健康には注意していたのだが、12月に中部のミネアポリスと東海岸のボストンを訪問する出張の前日、長男が発熱した。朝飛行機に乗る前に空港から電話したら今度は吐いたという。後ろ髪をひかれる思いで飛行機に乗ったら、ちょうど席の前に航空会社のフライトスケジュールの小冊子が置いてあった。よくよく考えたら、2泊3日の予定のうち1日目と3日目にはアポを入れたが、2日目は移動だけである。2泊3日にしなくても2往復すれば2日目は自宅に居られると気づいた私は、その小冊子でフライトを確認して、ミネアポリス到着直後に医者に予約を入れて航空券も変更し、夕方の便でベセスダに戻った。
その日の夜に今度は次男が咳をしはじめ、家内に言わせると「死ぬかと思った」というほど呼吸がひどくなった。何とか夜を乗り越えて翌日医者に2人とも連れて行き、薬が処方された。たぶん日本人の子供にはかなり強い薬だったのだろう。一晩で2人とも概ね治ってしまい、私はホッとして翌日ボストンへ出張した。フライトスケジュールの小冊子の前の座席にすわった幸運に感謝した。
風邪は何度も我が家を襲い、「日本と菌が違う」と家内は言っていた。ちょうど1月1日に家内が寝込み、昼食の調達に行ったらこの日はスーパーだけでなくハンバーガーショップも閉まっていて、途方にくれた。幸い、中国人なら開けているのではと回った中華のテイクアウトのお店が開いていて、チャーハンを夕食分まで買い込むことができ、助かった。2月にも家族が風邪をひいて、今度はテキサスへの出張が中止になった。
こうやって振り返ると大変だったことばかり思い出されるが、初めての海外生活がそこそこ楽しかったのも事実である。長男は幼稚園を楽しんでいるようだったし、「お父さんが早く帰ってくる」のも家族にとって良かったようだ。家族旅行にも何回か出かけた。
研修本体の方は、日本の「環境影響審査課」のようなEPAの課に机を借りて、様々な環境アセスメントの案件を担当している人へのインタビューを重ね、英語の練習をしながら米国の環境アセスメント制度を学んだ。
2月下旬に第二の目的地のサンフランシスコに移動することになり、EPAでお別れ会を開いてくれた。家族みんなが呼ばれ、同僚から、寄せ書きと、どこからか調達されたEPAの表彰盾、それに女性職員が作ってくれた詩を入れた額を、お土産でいただいた。今でも宝物で、毎年どれかを部屋に飾っている。
サンフランシスコではカリフォルニア湾の保全を担当する部局などを訪問して、同様にインタビューしながら知識を得た。ワシントンより暖かくて天国のようだった。坂が多い独特の地形で、市内をケーブルカーが走り、ジェットコースターのようにアップダウンするのが面白かった。住居はベセスダの失敗を繰り返さないよう、陽当たりを確認して明るい部屋を借りた。3週間程度の滞在だった。
こうして1992年3月中旬、5か月余りの研修を終了して無事帰国、出発した田柄住宅(前回のコラム参照)に戻ってきた。次のパリへの赴任までさらに1年9か月住むことになる。
ワシントンへはその後にも出張で行ったが、サンフランシスコはこれっきりである。再訪したい街の1つである。
EPAの同僚の寄せ書き