顧問早水輝好「気が小さい」

コラム第18回

気が小さい

2022年7月25日
早 水 輝 好

 前回のコラムでカーリング選手の精神的重圧の話を書いたが、オリンピックに出場する日本選手は、以前に比べれば大舞台で実力を発揮できる人が多くなったような気がする。昔は本番に弱い選手が多かった。最近は「試合を楽しめた」「声援が聞こえて頑張った」など、ポジティブなコメントが増え、スポーツ選手はこうでなくちゃ、と思う。

 子供の頃、私は「気が小さい子」と言われていた。まじめだが臆病、恐がりなのである。人前ではドキドキするし、怒られるのが嫌いで、体育会系の先生は苦手だった。実家は4車線の表通りに面していて、信号のある2つの交差点のちょうど真ん中にあるので、道路の向かい側に行くには、交通ルールを守るなら大きく迂回しなくてはいけない。でも、向かい側にはパン屋、米屋、床屋など、結構日常生活に必要なお店が多い。迂回するか、信号のないところを渡るか、悩ましい「二者択一」であった。交通量が少ない道路なので、渡るのは子供でも安全かつ容易だったが、気が小さい私は「迂回派」で、床屋のおじさんからいつも笑われていた。(押しボタン付きの横断歩道ができたのは、私が子供を卒業してからだった。)

 「気が小さい」は「臆病」「神経質」「細かい」と同様のネガティブな表現である。褒める方から言うと、「慎重」「よく気がつく」「細やか」ということになるのだが、子供の世界ではプラスに作用することは少ない。何とかこの性格を克服したいというのが子供の頃の願望だった。
 幸い、公務員生活では人前で話す機会が多く、会議や講演などで話すのにはだんだん慣れてきた。海外に行くなんて大学の頃まで考えもしなかったのに、思い切って自分から手を挙げてアメリカに5ヶ月研修に行ってから、OECDへの赴任、条約交渉と、知らないうちに「国際派」になっていた。そういう意味では、仕事が性格を変えたのかもしれない。

 そんな中でもやはり緊張したのは国会答弁であった。環境委員会のような委員会では、政策の方向性など大きな話は大臣か副大臣・政務官が答弁するが、細かい質問は「政府参考人」として役人が答弁する。私が役所に入った頃は課室長クラスでも答弁していたが、その後仕組みが変わって審議官・局長クラスが対応するようになった。補佐の時は答弁者のお供(これも後ろからのメモ出しなどがあり結構緊張する)、課室長になったら大臣への答弁の事前説明が役回りとなり、とうとう2015年に自らの国会答弁の機会がめぐってきた。当時は原発事故後の除染を担当する審議官だったので、衆議院東日本大震災復興特別委員会が初答弁の場となった。
 国会質問は、通常前日までにどんな質問をするかの「通告」があり、それを踏まえて準備するのだが、時々通告と関係なく質問する議員がいる。1人目を無難にこなして2人目、新人の議員がいきなり復興大臣に事前通告していない質問をし始めた。そら来たと私も手持ち資料を空いている隣の席に広げて何でも対応できるように準備し、わからないものは「手元に数字がございません」と正直に答えて乗り切った。ところが、緊張したのか、除染事業の見込額を聞かれて「1兆8,900億円」と答弁すべきところを「1兆8,900円」と言ってしまった。すぐに先方から「1兆8,900円とおっしゃいましたが、8,900億円?」と確認されて初めて気づき、その場で訂正して事なきを得た。もし間違ったまま委員会が終われば議事録修正ということになって、えらく面倒な手続きが必要になるところだった。
 その後の国会答弁も何とか大過なく乗り切ったが、公務員を退職して一番ホッとしたのは国会答弁をしなくてよくなったことだと言っても過言ではない。

 ここまで慣れたので、人前で緊張して失敗するようなことはもうないだろうと思っていたら、最近やらかしてしまった。退職してから習い始めたピアノの発表会で(コロナのため発表者数名だけの内輪の会だったが)途中で詰まってしまったのである。しかも2曲用意したうちの簡単な方の曲で。いつもは何事もなく通過するところで、弾く鍵盤がずれたのか変な音が聞こえた瞬間、手が止まり、自分がどこを弾いていたのかも忘れてしまう「頭真っ白」状態になってしまった。しばしの沈黙の後、何とか再開したものの、その後も乱れが止まらず散々の出来だった。ピアノの先生は「誰でも一度はやるのよ」と慰めてくれたが、トラウマになってしまわないか、心配である。

 新型コロナの感染が拡大して以降、様々なリスク回避のための対策を求められるようになり、マスクをして三密を避け、飲み会にも参加しない状態を続けてきた。リスクにおびえるのは「気が小さい」証拠で、せっかく前向きに生きてきたつもりだったのに、小さなことでも怖がった子供の頃に戻ったような気がする。海外に行く勇気がなかった私が、それを克服して国際派になったのに、こんな状況になって、楽しみにしていた退職後の海外旅行も行けなくなってしまった。海外に行きたいという気持ちまで消えてしまいそうである。

 私が海外出張によく行っていた頃のこと。フィンランドのヘルシンキ空港は日本からヨーロッパへ行くのにちょうどいい中継地点となるので、航空会社のFINNAIRがキャンペーンをしていて、トランジットエリアは欧州域内便に乗り換える日本人の団体客でごった返していた。ある団体のツアーコンダクターが、熟年の団体客を旗のもとに並ばせて「これから入国審査になりますが、係員に何か聞かれたら、『サイトシーイング(注:日本語発音で)』と答えて、にっこり笑って下さい。スマイルです。これで大丈夫ですから。」と大声で説明していた。これこそ「気が小さい」人でも海外旅行に行ける秘訣だな、と思った。何とおおらかな時代であったことか。そんな時代に早く戻って、もう一度、笑顔で海外に行きたいものである。

移転後の事務所から見る国会議事堂(三角屋根が光っている建物)

(追伸)前回のコラムで書いた、将棋の渡辺明名人がカーリングの魅力を解説しているという日本選手権のプログラムが届いた。早速読んでみたら、その解析・洞察の深いこと、生半可なものではなかった。数行読んだだけで「恐れ入りました」と投了した。