「関千枝子『広島第二県女二年西組』」 (2025年1月)
2025年1月27日
小 澤 英 明
広島の被曝した女学校生徒の記録である。爆心地から南へ1.1キロの市役所の裏の雑魚場町に作業のため動員された広島第二県女二年西組の生徒たちのほとんどが被曝後2、3日のうちに息を引きとった。13歳か14歳の若さである。作者の関(旧姓富永)千枝子さんは、二年西組の生徒の一人だったが、当日下痢で自宅で休んでいたため助かった。ちくま文庫(写真1)の最初のところに、二年西組の生徒らが一年生のときのクラス写真がある。名前がすべて書き込まれている。写真は、林写真館によるもので、クラスの林良子さんの父の撮影である。林写真館が市の中心地で爆心地から500mほどしか離れていなかたので、林さんの自宅一体が壊滅状態で、林さんの最後は確認されていない。この本のすごいところは、二年西組の生徒のうち、病欠などで幸運にも助かった数名以外の生徒のほとんどの最後(死ぬ間際)を関さんの克明な取材で詳細に記録しているところである。
この本は、全編、クラスメートの最後を何としても確認したいという著者の気持ちで書かれているものだが、それだけでなく、その一人一人を惜しんで、級友の思い出を丁寧に書き込んでいる。このように真率な心持ちで編まれたクラス全員のアルバムともいうべき本は、例がないのではないか。クラスメートの多くは、原爆という思いがけない惨事で命を失ったわけだが、関さんのこの本で永遠の生命を与えられたようにも思える。本の最初に載せられている写真を見ながら本文を読み進めると、そのような気持ちになる。13歳とか14歳というと、子供から大人になる段階の最初の頃である。写真はその一年前の一年生の時のものだから、むしろ子供の顔立ちである。最前列は皆さんお行儀よく正座している。東京からの転校生だった関さんに優しくしてくれた為数美智子さんも座っている。
広島は私の父方のルーツである。爆心地から数百メートルしか離れていない中区空鞘(そらさや)町というところに曽祖父の時代まで住んでいたことを最近知った。先月、はじめてそこを訪ねた。広島駅から宮島行きの路面電車に乗り、本川町というところで降りて、本川(旧太田川)に沿って少し北に歩いていくと、空鞘神社がある(写真2)。その付近のごく狭い地区がかつて空鞘町と呼ばれたところである。原爆で付近は壊滅したのだが、曽祖父は1892年には広島から長崎県佐世保市に引っ越しているので、わが祖先は原爆とは無縁である。空鞘神社の宮司さんの話では、旧空鞘町に戦後戻って今なお住まわれている家は数軒もないのではないかとのことであり、神社も戦前の痕跡は境内の石しかないとのことだった。
さらに本川に沿って少し歩くと空鞘橋のたもとに着く(写真3)。かつてはその付近から対岸に船で渡り、お城に勤務していたわけである。今や橋を渡るとつい最近完成したばかりのサッカースタジアムがあるが、その先に広島城のお堀がある(写真4)。そこから、真っ直ぐ南に降りていくと、爆心地にたどり着く。こんなに爆心地は近かったのか。原爆ドームに着いたのは、午後5時頃だつたが、まだ明るかった(写真5)。この建物は、チェコ人の建築家のヤン・レッツェル(1880-1925)の設計によるもので、1915年に竣工している。外壁とドームの骨格しか今は残っていないが、美しく感じた。原爆の記憶を留めるために欠かせない。そこからさらに南に歩くと、平和公園であり、その先に丹下健三の広島平和記念資料館がある(写真6)。原爆ドームと公園の距離感、公園の形状、広さ、資料館の建物の配置とデザイン、すべてバランスのとれたものに思えた。
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写真4 | 写真5 | 写真6 |