弁護士小澤英明「遊びについて」

遊びについて (2023年8月)

2023年8月30日
小 澤 英 明

 46歳から54歳まで黒ラブ(黒いラブラドール犬のこと)を飼っていた。名前はバロン。バロンに教えてもらったことはいくつかあるが、飼ってはじめてわかったのは、犬は遊びが大好きで、三度の飯(犬なので三度はないが)と同じくらい好きだということである。世田谷の小さな庭だったので十分走ることもできないスペースだったが、そこでボールを投げては取ってくる遊びが大好きだった。その様子を見て、これは人間の本能にも通じるものではないかと思った。
 私たちの幼少の頃の遊びと言えば、仲間と遊ぶのは草野球や缶蹴りなどであったが、一人遊びは、夏休みであれば、蝉取り、クワガタ取り、トンボ取り、という昆虫採集がメインだった。遊びは、幼少の頃、男と女の性差がはっきり現れ、誕生会でのゲーム遊びなどを除くと、男は男としか遊ばない、女は女としか遊ばないものだった。誕生会というものは、誕生日に仲のいい友達や気になる異性を自宅に呼ぶパーティーで、小学校の頃にさかんだった。呼ばれた場合は、プレゼントをもっていくことが決まりだった。お母さま方もお世話が大変だっただろうと思う。あまりにはやったので、4年生の担任の女の先生が、苦言をもらしていたことがある。また、小学校のプールには夏休み中、ひんぱんに通って、そこには男も女も何の区別もなかったように思うが、プールでも男の友達と遊んだ記憶しかない。私たちの小学校の頃は、夏休みは遊ぶ期間と割り切れた。それは、冷房がなかったからでもある。
 子供の遊びに劇的変化が生じたのは、私の子供の世代、つまり1980年代生まれの子供たちからだと思う。それは、コンピューターゲームが誕生したからである。1980年代の終わりころから、任天堂のファミコンが人気になった。子供たちに買い与えたところ、当時6歳と4歳の男の子が熱中した。私もスーパーマリオゲームの面白さを知って、これは、インベーダーゲームなどと比べると格段に上のレベルのものだなとすぐにわかった。インベーダーゲームというのは、ブラウン管みたいな画面のゲーム機がテーブルトップに組み込まれたテーブルをはさんで二人が座り、対戦するもので、喫茶店に置いてあった。修習生時代(1978-1979)に、私も現在の当事務所顧問の山田先生(元さいたま地裁所長であり、それだけ聞くといかにもいかめしい人のように思えるが、実は大のゲーム好きである。)と興じていたが、それから10年ほど経つと、テレビゲームの隆盛時代となったのである。
 私の家では、子供たちが小学生の頃、あまりに熱中するので、ゲームをやってよい曜日を決めていた。しかし、ゲームをできない日は、子供たちは漫画を楽しんでいた。妻がゲームのできない日の子供たちを可哀そうに思ってか、漫画を買い与えていたため、家の中が漫画だらけになり、訪ねてくる人たちからは、ここは漫画図書館だねと言われるほどになった。ゲームも漫画もいずれ卒業するだろうと思っていたが、娘の報告によると、次男は大学入試の直前まで隠れてゲームをやっていたらしい。しかし、大学に入ると、友人との外での遊びがよほど楽しくなったのか、次男もしだいにゲームや漫画から遠ざかっていった。
 孫二人は、今、YouTubeでのヒカキン様のゲーム実況中継に夢中である。