朋あり遠方より来る (2025年11月)
2025年11月14日
小 澤 英 明
今週水曜日(11月12日)、小学校の友人濱口隆章君が不意に事務所を訪ねてきた。小学校以来かと思ったが、大学に入った頃、一度別の友人宅で会ったことがあるとのこと。それは忘れていたが、いずれにしても、あまりにも久しぶりで、またあまりにも突然で、こういうこともあるかとその日は一日中、上の空だった。濱口君の学生時代からの友人の音楽グループ仲間が銀座で演奏会をやるので誘われて東京に出てきたが、その会場が私の事務所とあまりにも近いので訪ねる気になったらしい。もちろん大歓迎なのだが、会っている最中にその仲間から、早く来いと電話がかかってきて、30分ほどで切り上げて、事務所から出ていった。年賀状のやり取りもしておらず、昔ならとても再会できないのだが、私の事務所のホームページを見てくれていたから会えたのである。
その時に見せられた写真が下の写真。私は、右側でジャイアンツの帽子をかぶっている。濱口君は写真の中央。皆とても楽しそう。一人だけ覚えていなかったが、あとは濱口君から名前を言われると、顔と名前がはっきりと蘇ってきた。小学校というのは、佐世保市立山手小学校。私は中学から鹿児島のラ・サール中学に進んだので、小学校の記憶は鮮明である。小学校の5年と6年はクラス替えがなかったので、女の子もほとんど名前まで言えるほど。濱口君は、独特の存在感があり、遊び仲間が多かったが、悪ガキも濱口君には手を出せないような雰囲気があった。半世紀も経って見た顔は、昔のまま、印象はほとんど変わらない。濱口君は、佐世保北高校から熊本大学に進み、長崎の地場の企業に進んだとのことで、昔の同級生のその後について知る限りの情報を話してくれた。
その日は小学校の頃のことの思い出にふけった。佐世保市は天然の良港をもち、私が小学生のときはまだ造船業が大変盛んで、佐世保重工業が当時世界最大の13万トンタンカー日章丸を建造した。世界一のタンカーだということで誇らしく、見学に行った記憶がある。今調べると昭和37年7月のことで私はまだ小学校1年生だったことになる。市の中心部の四ケ町という商店街も玉屋デパートも大変賑やかだった。佐世保市の最も輝いていた時に私は小学校生活を過ごしていたことになる。もと軍港があったところで、戦後はアメリカ軍の基地も置かれていた。坂の多い町であり、小学校は坂を上って行かなければならなかった。当時、約40名がひとクラスで、学年は4組あった。私は1組で、1組と4組が男の先生、2組と3組が女の先生。2組は川添先生、3組は古賀先生。川添先生のことで思い出すのは、身体検査の胸囲測定のとき、私が胸囲を大きく見せようとして胸を張ったら、測定していた川添先生が笑い出したこと。私の浅はかな行為がよほどおかしかったらしい。当時、私は身長は普通だったが痩せていて、それが自分では嫌だったのである。
古賀先生は私の運命を変えた先生である。と言うのは、ラ・サール中学受験を勧めてくれたからである。古賀先生は私の4年生の時の担任で私のことはよく知っておられた。6年生の12月だったと思うが、古賀先生のクラスのある生徒がラ・サール中学受験を先生に申し出たらしく、それがきっかけで、「小澤君も受けてみたら?」とわざわざ言ってくださったのである。私の親にも直接話されたらしかった。と言うわけで、受けるだけ受けてみようということになった。当時、「応用自在」という受験参考書があり、それは父親が買ってくれていた。そのような参考書で学校以外の勉強もしていたことはしていたが、受験を意識した勉強はやっていなかった。急遽、昼休みに世界地図を机の上に出して見るなどしていたら、クラスの友達から何をやっているのかと聞かれた記憶がある。にわかじこみだったが、運良くラ・サール中学に合格できた。濱口君はその私の机の辺りにいたわけで、今回、その時の空気を58年ぶりに運んでくれた。私が東大に合格した春、古賀先生は私の自宅までお祝いに来て下さった。人生は人との出会いで大きく変わるものである。古賀先生がおられなかったら、ラ・サールの友達とは会えなかったし、今の自分はなかった。
