弁護士小澤英明「広島市空鞘町」

広島市空鞘町(2022年8月)

2022年8月12日
小 澤 英 明

 昨年母を亡くして、墓の問題を考えるようになった。1年前まで墓のことはほとんど考えたことがなかった。母を納骨する早岐(はいき)にある小澤家の墓に誰が入っているのか確かなことを知らなかった。早岐は、佐世保市の一部で、ハウステンボスの近くである。かつては交通の要所だった。もともと、父が小澤の姓となったのは、父の母系統の養子となったからと聞いてはいたが、父が4男4女の末っ子で一人だけ他の兄弟とは異なって、幼少時に「小澤」姓を名のらされたのがなぜか。父の母「ヒテ」が、結婚前は「小澤」姓だったからということはわかっていたが、ヒテが父の幼少の頃死亡していて、墓に刻まれている「善太郎」、「キヨウ」、「スワ」との関係もわからなかった。
 直系尊属については、市役所に問い合わせれば、関係の戸籍を送付してくれる。父が「小澤」になったのは、父の長姉の養子になったからということがまずわかった。お姉さんの養子って、何なんだ、とここでまずつまずく。よく読むと、そのお姉さんが他家に嫁ぐ少し前に父が養子になっている。「ははーん、お姉さんが結婚するので、父が身代わりになったな」と察せられた。さらに調べると、そのお姉さんもヒテから生まれてすぐにヒテのお母さんのスワさんの養女となって、「小澤」姓を継がされたことがわかった。ヒテは、スワさんと善太郎との間の一人っ子で、結婚を機に「小澤」ではなくなったので、「小澤」姓をなんとか残そうとして、善太郎に先立たれたスワさんが動いたものと察せられた(下記関係図参照)。
 スワさんの出身は、佐賀県伊万里町(現・伊万里市)ということもわかった。善太郎は、スワさんの戸籍では生年等が不明なので、佐世保市役所に、小澤善太郎の戸主時代の戸籍の送付を依頼した。送られてきた戸籍を見ると、善太郎が早岐に移転するまでは広島市の空鞘(そらさや)町というところに住んでいたことがわかった。爆心地のすぐ近くである。なぜ、広島市から早岐に転居したかはわからない。ただ、善太郎の父が「常次郎」という名前であり、母が「キヨウ」であることもわかった。スワさんが善太郎と広島市で結婚して、ヒテを生んで、その後、一家全員で早岐に移転したようだ。父が幼少の頃、ヒテお母さんに連れられて、広島に二度行った記憶があると語っていたので、広島には何かがあると思っていたが、広島市空鞘町が「小澤家」のルーツだった。広島市では大正4年1月1日以前に除籍となった戸籍は廃棄されているとのことで、私のルーツ探索もここで終了となった。
 今回、祖先をたどって行くと、養子という制度がかつては頻繁に利用されていて、多くが「家」を残すためであることがわかる。父がお姉さんの養子になり、お姉さんが嫁いでしまったので、幼少の父を監護する者がいなくなったという理屈で、同居していた、父の父(つまり私の祖父)が父の後見人に就任していることにも驚いた。また、今回の探索で一番古い生年月日を把握できたのが、「キヨウ」さんで、天保6年(1835年)5月17日生まれである。広島県沼田郡楠木村の出身とある。調べると、楠木村は空鞘町のすぐ近くである。祖先の一人一人が、数十年それぞれの人生を生きている。どういう一生だったのだろうか。近く、旧空鞘町を訪ねてみたい。