弁護士小澤英明「多田茂治」

「多田茂治」(2024年10月)

2024年10月25日
小 澤 英 明

 先日6年間の私募リートの監督役員を退任した。私募リートについて少し解説すると、これは、不動産投資に特化した投資法人であり、法人格をもつため権利義務を帰属させることができるものの、実態がほぼなく、不動産投資に必要な判断は、すべて委託先の資産運用会社が行うものである。実態がないわけでもないのは、その法人の機関として投資主総会があり、そこで選任された執行役員と監督役員が役員会を組織するからである。執行役員は多くの場合資産運用会社の社長がつとめ、監督役員が資産運用会社を監督するため、監督役員は執行役員より多い人数が必要とされている。多くの場合は、監督役員は、弁護士と公認会計士が任命される。この私募リートは、創設以来6年間、私と公認会計士のH先生が監督役員をつとめてきたので、そろそろ潮時ということで二人とも退任したというわけである。役員会には、資産運用会社の社員が毎回厚い資料をもとに一か月の推移を説明されるのだが、資産運用会社の社員と監督役員とが親密になりすぎるのは良くないので、6年間一度も会食の機会はなかった。退任したその日、資産運用会社の人たちが私たち二人の慰労会を開いてくれた。
 慰労会では、何度も役員会で会った資産運用会社の若い人たちとはじめて親しく話すことがてきた。私は、それぞれの若い人がどうしてリート業界に入ったのか興味があったので、一人一人バックグラウンドを聞いていったのだが、そのうちのYさんが、「大学ではシを研究していました。シ、poemです。」と言ったので、そこにいた8名がどよめいた。私が「どの詩人を研究したのですか。」と聞いたところ、「石原吉郎です。」と返事があったので、今度は私が驚いた。戦後の代表的詩人でありながら、若い人にはあまり知られていないと思っていた詩人だからである。もちろん熱烈なファンもいる。「シベリア抑留で大変な目にあった人なんだよ。」と私が解説した。石原吉郎(1915-1977)の名前は同席した他の人は誰も知らなかったが、私には懐かしい名前だった。それは、かつて家庭教師をしていた家のご主人の多田茂治(1928-2020)さんが「石原吉郎 『昭和の旅』」(2000年作品社)という本を出されたので、興味をもって本を買い、石原吉郎の独特の詩の文体に強い印象を受けた思い出があるからである。
 私が多田さんの娘さんの家庭教師だったのは、東大に入学した1974年から2年弱のことである。多田さんは、私の小学校時代の友人の篠原政幸君(現在、佐世保市の老舗醤油メーカーであるヨーコー商事の社長)の叔父さん(篠原君のお母様の妹さんのご主人)にあたり、東京がはじめてだった私には恩人の一人である。当時、東久留米市のひばりが丘団地にお住まいで、そこで多田さんも交えて奥様の美味しい料理をいただくのが楽しみだった。多田さんは、福岡県小郡市(久留米や鳥栖に近い)に生まれ、九州大学経済学部を卒業されたが、高校時代から文学に熱中されたようである。新聞記者を経て、私がお会いした頃は週刊誌編集者をされていたが、他方で自宅で文筆活動もされていた。どのような文筆活動をされていたのか、当時、私は知らなかった。しかし、家庭教師をやめてから十数年たった頃、つまり、1990年代に入った頃から、多田さんは、次々に世間の注目を浴びる本を出された。そこで、私にも多田さんが何に興味をもっておられたのかはじめてわかった次第である。多田さんは「夢野久作読本」(2003年弦書房)で2004年に日本推理作家協会賞を受賞された。
 多田さんの本に導かれて石原吉郎の詩を読むと、その詩句に独特のものを感じ、石原吉郎に関心をもった。多田さんが本を書かれていなかったら、石原吉郎を私は多分知らなかっただろう。また、多田さんには、「野十郎の炎」(2001 年葦書房)という画家髙島野十郎の評伝がある。この本を読むまで髙島野十郎(1890-1975)のことは知らなかったが、本の口絵の髙島野十郎の絵はどれも印象深いものである。多田さんは、他にもいくつも評伝があるが、私がしっかり読んだのは、石原吉郎と髙島野十郎の二つ。多田さんには独自の鋭い鑑賞眼があられたと思う。私が「都市の記憶」(白揚社2002年)という歴史的建築物の本を写真家の増田彰久さんと建築史の鈴木博之先生と共著で出して、それを多田さんに送ったときに、丁寧なお礼状をもらったことがある。お会いしたかったが、その後は年賀状のやりとりで終わった。ご出身の福岡県ゆかりの方の評伝も多いが、他者を助ける人々を描いた著作も多い。