「リスクを下げるために」顧問早水輝好

コラム第7回

リスクを下げるために

2020年12月23日

早 水 輝 好

 前回のコラム以降、いろいろと忙しくて文章を書く時間がとれず、随分時間がたってしまった。この間、新型コロナの第二波の感染者数が十分下がりきらないまま第三波に突入し、憂鬱な年末年始を迎えることになった。
 私も高齢者の部類に属するので、春から夏にかけてはなるべく感染リスクを下げようと極力在宅勤務にして巣ごもりしたが、今度は暑さ負けとストレスで体調を崩してしまった。幸い涼しくなってきたら回復したが、感染リスクを恐れるあまり別のリスクを抱え込むとは思わなかった。
 我々の生活の中にはいろいろなリスクがある。今回のコロナはインフルエンザと比べると罹患率が低いと言われているが、感染から「死」まで随分近い印象があり、リスクがより強く感じられる。また、基礎疾患のある高齢者を主な標的とする一方で、無症状の人からも感染してしまうという、これまでの医学や公衆衛生の努力をあざ笑うかのような邪悪なウィルスを相手にしなくてはいけないところがやっかいである。
 環境行政の中では化学物質対策において「リスク」という言葉をよく使う。この場合の「リスク」とはその物質固有の有害性(Hazard)とその物質をどのぐらい取り込むかという暴露(Exposure)とのかけ算であり、例えば通常なら安全な食塩でも取り過ぎれば健康を害するから注意が必要だし、毒性が強いダイオキシンでも暴露レベルを十分下げれば大丈夫、というのがリスク管理である。ただ、やはり有害性の中身に「死」が含まれることが目に見えてくると、できるだけ「ゼロリスク」を目指したいと思うのが人の常である。
 元行政官としては、「ゼロリスクを実現するのは難しいから、科学的にほとんど心配のないレベルまで下げればいいんです」と言いたくなるのだが、リスクの感じ方は人それぞれであり、なかなか理解を得られにくいことが多い。福島の原発事故の後に、政府が避難を指示しなかった区域からも自主的に避難した人が少なくなく、中には沖縄に移住した人もいた。リスクの感じ方とそれをどこまで下げたいかは、個人差が大きいことがわかる。
 私もゼロリスクは無理と思いながら、ゼロにできるところはしようとしている。前回のコラムに書いたように自動車を運転しないのは人を殺すリスクをゼロにしたいからである。実は若い頃はなるべく飛行機に乗らないようにしていた。自動車よりはるかに事故の確率は小さいが、落ちれば必ず死ぬからである。さすがに外国に赴任してからはあきらめたが、未だに着陸時には、「今回も無事だった。機長さんありがとう。」と感謝して飛行機を降りている。航空工学の権威であった元日本学術会議会長の近藤次郎氏(故人)が「みんな飛行機が落ちるとどうして落ちたかと聞きに来るが、誰も飛行機はどうして飛んでいるのかとは聞きに来ない。飛行機を飛ばす方がはるかに難しいのに。」と話されたという記事を昔読んだことがある。確かに飛行機は放っておけば落ちるのだから、科学技術と人の力でそのリスクを極力下げて飛ばしているのである。
 コロナの感染リスクをゼロにするには、他者(社会)との接触を断つしかないが、それはほぼ不可能なので、有害な化学物質への暴露を減らすのと同様に、他者との接触を減らすか、接触があってもウィルスへの暴露を減らすことで感染リスクを下げることを考えなくてはいけない。そのためには、我々がなすべき行動についても、科学的な、あるいは経験的な裏付けに基づく説明があるとわかりやすい。例えば、「富岳」でのシミュレーションで飛沫がどこに飛ぶのかを見ると、マスクをしてないとまずいんだなと思えてくる。友人の医師が言うには、コロナは空気感染ではなく飛沫感染なので、マスクをして黙っていれば大丈夫、マスクを外した食事時の会話(飛沫が飛ぶ)や換気の悪いところ(飛沫が長時間漂う)が要注意ということである。最近言われている「感染リスクが高まる5つの場面」に共通する話である。感染者数や「こうして欲しい」という要請の結論だけでなく、感染の原因や要請の背景に関する説明・報道がもっと増えると、より適切な行動をする人も増えるのではないかと思う。
 以前の小澤所長のコラムで述べられた「最小限の規制と最大限の自制」というのは言い得て妙である。その中で指摘されているとおり、日本の今の仕組みでは政府が緊急事態宣言を発出したとしても個人の行動については「要請」なので、最終的には個人のリスク管理に委ねられる。しかも、自分の身を自分で守るだけでなく、人にうつさないことも含め、「自分たちの身は自分たちで守る」ように行動することが求められていると言える。
 初詣の混雑を避けるため、神社やお寺では御札を前倒しで販売したり郵送したりするところもある。近所の神社では「御札、破魔矢、御神籤等の頒布を全面的に中止とさせて戴きます。」という貼紙が出た。密を避けるためとは言え、随分潔い決定で、まさしく「最大限の自制」である。我々も年末年始に医療崩壊を招かないよう、感染しない、させない努力を最大限しなくてはいけない。
 今年はコロナのために散々な1年になってしまったが、来年は少しでもよい年になるようにと、お正月に初詣に行けなくても願わずにはいられない。

深大寺で購入した先行販売の牛の置物