インタビュー 山田 俊雄

岩瀬香奈子さんにインタビュアーになっていただいて、当事務所顧問の山田俊雄弁護士にインタビューをしていただきました。岩瀬さんは、株式会社アルーシャの代表取締役であり、その事業において難民を積極的に雇用されるなど難民の支援に熱心に取り組んでおられるとともに、長年弁護士のヘッドハンティングにも従事され、弁護士業界に通じておられます。

岩瀬:今日は、山田さんのことをいろいろとお尋ねしたいのですが、まず、裁判官になろうとお考えになったのはいつ頃でしょうか。司法試験をめざされた時からですか。それとも大学に入学される前からですか。どういうきっかけからですか。

山田:裁判官になろうと考えたのは、司法修習生のときです。当時は2年間(現在は1年)で、4か月ずつ職種別の実務修習があったのですが、実務修習が終わる1年4か月程経った頃ですかね、裁判官、検察官、弁護士の仕事ぶりを見ていく中で、「裁判官が自分には向いている」と感じるようになりました。独立して自分で最終判断ができるという役回りが性格に合っているように感じたことが大きいように思います。中学、高校を通じてアガサ・クリスティー等の推理小説、法廷ものの小説を読むことが好きで、物事を慎重に吟味し判断することが好きだったことも影響しているかもしれません。

岩瀬:裁判官のお仕事や生活は、実際に経験されて、いかがでしたか。想像どおりでしたか。

山田:先輩たちから様子を聞いていたこともあり「想像どおり」ではありました。が、大変でした(笑)。任地での忙しさの差にもよるのですが、土曜日曜も記録を読んで判決を起案するということが結構な頻度でありました。とはいっても、読書や映画鑑賞など、趣味に費やす時間もしっかりと確保するように心掛けていたからかもしれせんが、忙しさからくるストレスはあまり感じることなく、裁判官生活を送ってきたという印象です。ここ十年ほどは「月に8本映画を観る」ことを自身に課していますので、その達成も大変でした(笑)。

岩瀬:山田さんの経歴を拝見しますと、2、3年に一度は異動されているようにお見受けしますが、地方ではどこが思い出深いでしょうか。

山田:そうですね。いずれの任地でも思い出になるような事柄はありましたが、裁判官としての一歩を踏み出した大阪、初めて単独で事件を取り扱うようになった広島、仕事の絶対量が多かった東京では、かなりの時間を仕事に費やしたという印象です。釧路、八戸では、ワークライフバランスが比較的取りやすく、仕事以外の思い出が色々と残っています。所長として赴任した函館では、初めての単身生活を経験しましたが、妻が何度も様子を見に来てくれたので、そのたびごとに観光地や地元の美味しい食材を提供してくれるお店を探しておくことを心掛けていました。地元の調停委員の方々から色々なお話をうかがうのも楽しかったですね。釧路、八戸、函館はプライベートでまた訪ねてみたい街です。

岩瀬:裁判官は民事畑、刑事畑があるとうかがっていて、山田さんは民事畑であるということでよろしいのでしょうか。民事畑と言っても、ずいぶん広いと思いますが、あらゆる分野をご経験されているとうかがってよろしいでしょうか。

山田:刑事も担当したことがありますが、3年間という短い期間で、裁判官生活のほとんどは民事事件の担当でしたから、「民事畑」といってよいと思います。民事事件は、不動産を巡る紛争や色々な類型の損害賠償請求事件のほか、家事紛争、交通事件、労働事件、行政事件など、幅広い分野の事件を担当しました。経験しなかった民事事件は知財事件程度です。修習生の頃から、民事事件を担当したいという気持ちが強かったので、結果的に「民事畑」の裁判官としての希望が叶い、恵まれた裁判官生活を送れたと思っています。

岩瀬:裁判官と判事さんとは同じことですか。

山田:正確に言えば、判事は裁判官の官名の1つということになります。
裁判官には大きく「判事」と「判事補」とあります。まず「判事補」として10年間仕事をし、その後「判事」に応募と言いますか、希望を出し、任命されると、判事になります。判事の任期も10年ですので、10年判事としての経験を積んだ後に再任の希望を出し、再任されれば、また判事として仕事をすることになります。10年毎に更新するような形です。
また、「判事補」の中には「未特例」と「特例」という2種類があります。「未特例」は1年目から5年目の判事補で、6年目からが「特例」です。特例になると単独での裁判ができます。

岩瀬:合議とか単独ということも聞きますが、少し説明していただけるとありがたいのですが。

山田:合議は左陪席と右陪席と裁判長の3人で判決を出します。単独は1人で判決します。ニュースや法廷ドラマで、裁判長と両側に裁判官がいるシーンは見たことはありますよね。裁判長からみて左側が左陪席、右側が右陪席となります。傍聴席からみると、裁判長の右側が左陪席、左側が右陪席です。
地方裁判所の左陪席は1~5年目の判事補が、右陪席は6~10年目の特例判事補や11年~20年目の判事が担当することが多いといえましょうか。今度、ニュースで見るときは、「左の人はフレッシュで、右の人は中堅か」と思って見てもらうと良いかも知れません。
どのような事件が合議になるのかということもよく聞かれますが、地方裁判所の民事事件ですと、通常の事件は単独(1人)で担当し、複雑な事件など3人で相談しながら審理を進めた方がよいと判断した事件は合議で担当するというイメージです。最近は合議で扱う事件が増えてきている印象です。

岩瀬:この経歴の中で、依願退官とか検事任官とありますが、どういうことでしょうか。

山田:平成9年に依願退官した理由は、国鉄清算事業団に移籍したためです。いわゆる出向ですが、裁判官の身分のままでは出向できない組織であったため「退官」しました。国鉄清算事業団は、昭和62年に国鉄が分割民営化したときに、国鉄が負っていた30兆円近くの債務の処理などを目的として作られた組織ですが、私は、法務関係の事務を担当し、様々なセクションから寄せられる法律相談に対応していました。裁判所組織とは違った仕事の流れで何もかもが新鮮であり、JR、国交省、弁護士事務所の方々とも接触があり、良い経験をさせていただいたという印象です。2年後には、また裁判官に復帰しました。
検事任官は、平成17年に証券取引等監視委員会の事務局次長に出向することになったのですが、出向には検察官の身分を取得する必要があったことから、検事任官となったものです。相場操縦やインサイダーなどの不公正取引の実態やディスクロージャー制度の現状などを垣間見ることができましたし、投資者保護のために何ができるかという観点からの仕事で、とても興味深く任務にあたったと記憶しています。

岩瀬:司法研修所教官は4年ほどなさっていますね。教え子が相当いらっしゃるでしょうが、教え子の皆さんは、もう30代から40代の年代でしょうね。司法研修所の教官のお仕事はいかがでしたか。

山田:はい、4年ほど教官をしておりました。対象は54~59期の方々で、2001年~2006年に、400名ほどの教え子が弁護士、裁判官、検察官の道に進んでいます。若い方々に教えることはとても楽しく、自分自身にも良い経験となりました。先日、教え子たちが退官祝いをしてくれたのですが、皆活躍していて嬉しく思いました。教え子の活躍をみるのも教官の醍醐味の一つですね。

岩瀬:若いころに最高裁総務局付とありますが、これはどういうお仕事でしたか。

山田:昭和61年の頃なので、30年以上前の若いころですね。最高裁という組織の中にも、一般企業のように、人事・経理・総務等を扱う部門があります。大勢の人たちが裁判の仕事をしていますから、これを下支えする管理部門は裁判所も必要ということですね。

岩瀬:最後は、さいたま地裁所長ということですが、どうでしたか。

山田:地裁の所長は、簡単に言いますと、裁判を担当する部門が上手く回っていくようにアシストする仕事です。先程の質問にもありましたが、管理部門の責任者のような役割も含まれます。裁判は、裁判を担当する裁判体ごとに仕事が完結しますので、皆が気持ち良く仕事ができ、すべてが上手くまわるようにすることが重要なミッションでした。

岩瀬:さいたま地裁所長の直前は東京高裁部総括とありますが、このときは裁判官として判決も書いておられたのですか。裁判官時代をふりかえって、記憶に残る事件とか、おありでしたら、差支えない範囲で語っていただけたらと思います。

山田:直前の東京高裁部総括のときは裁判官として判決も書いていましたよ。東京高裁に控訴されてきた事件には、敗訴当事者にもそれなりの言い分があるものが多く、その言い分を吟味しながら1件1件の結論を出していった記憶です。記憶に残る事件は色々とあるのですが、IBMの持ち株会社が提起した課税処分の取消訴訟はその一つといえましょうか。当事者双方から詳しい主張が繰り広げられ、苦労した事案でした。

岩瀬:裁判官として大事にされていたこと、と言いますか、常日頃気を付けておられたことは何ですか。

山田:これはずっと心に留めていたことですが、原告や被告として裁判に関わることは、一般の方でしたら「人生に一度あるか無いか」の大きな出来事だと思いますので、そのことは絶対に忘れないよう肝に銘じ、1件1件に対して大切に向き合ってきたつもりです。
また、裁判官には中立性が求められます。当事者に不公平感を抱かれたら、それだけで裁判に対する不信につながりかねないので、中立性については、当然のことなのでしょうけれども、常に強く意識していました。

岩瀬:裁判官のお仕事は、一般の人にはなかなかわかりにくいと思いますが、一日の生活のリズムとか、どういうものでしょうか。また、裁判官の休暇についてもお聞きしたいのですが。

山田:そうですね。冒頭でもお伝えしたとおり、任地での繁忙度によって一日の生活のリズムも異なってきます。忙しいときは、合議事件、単独事件等を日々朝から晩までこなし、判決の起案は土曜、日曜に行うという生活を繰り返していたこともありました。とはいっても、趣味に費やす時間を作ることを心掛けていたことも冒頭にお話ししたとおりです。
ワークライフバランスは、裁判所においても良い仕事をするために大切だと思っており、さいたま地裁所長時代には、若い裁判官に対して、雑談などの機会にそのような話をしていました。

岩瀬:住宅はずっと官舎でいらしたのですか。

山田:平成12年に自宅を購入するまでは官舎でした。地方転勤が多い仕事なので官舎は助かりましたね。

岩瀬:山田さんは、大学時代は奇術クラブだったと小澤先生からうかがいました。また、ピアノ演奏の名手ともお聞きしました。ずいぶん多趣味でいらっしゃるんですね。今も続けていらっしゃるんでしょうか。

山田:奇術クラブは学生の頃に興味を持ち、今でも当時のメンバーとは飲む機会がありますが、マジックを披露することからはすっかり遠ざかっています。ただ、インタビューでこの話題が出ると小澤先生から事前に聞いていましたので、1つカード・マジックを用意してきました。

ピアノは幼い頃に習い始め、高校生くらいまで続けていましたが、小澤先生の言うような名手とは程遠く、当時もたしなむ程度で、今ではマジックと同じようにすっかりと遠ざかっています。ピアノの影響もあったと思いますが、モーツァルトが好きになり、修習生時代に、小澤先生もモーツァルト好きだと分かってから、意気投合し親しくなりました。

岩瀬:マジック、モーツァルト、素敵な一面ですね。もう少しプライベートなお顔を教えていただけませんか。

山田:そうですね。実は、米津玄師にハマっています(笑)。昨年末のNHK紅白歌合戦に出演されていましたが、昨年10月末と今年の1月末に、妻と2人でコンサートに聴きに行っています。タオルやバッグなど幾つかグッズも持っているんですよ。10月末のコンサートはオールスタンディングの会場で、六十代の私が体力的に2時間近くも持つだろうかと少し心配していたのですが、まったくの杞憂で、アドレナリン出っ放しで、あっという間に終わってしまったという感じでした。

岩瀬:先程から、映画がお好きなようにお見受けしていますが。

山田:はい、映画は学生時代から好きですね。ここ十年ほどは、「月に8本」のノルマを自身に課して見続けています。去年は『ボヘミアンラプソディー』が秀逸でしたね。今年2月までさいたま市に住んでいたこともあって、『翔んで埼玉』を封切直後に鑑賞したのですが、とても面白くお勧めですよ。

岩瀬:4月から首都大学東京法科大学院の民法の教授をつとめられているとお聞きしていますが、お忙しいのでしょうね。

山田:そうですね。30人位のクラスを担当しています。どのような講義をすれば法的思考力を高めることができるかなどを念頭に置きながら、学生たちの興味を引く授業をつくっていけたらと思っています。学生たちとの闊達な議論もしてみたいですね。

岩瀬:小澤先生とは司法研修所でご一緒だったとお聞きしていますが、小澤先生はどういう人でしたか、修習生の頃。

山田:小澤先生とはクラスは違ったのですが、同じ班だったので一緒に過ごした時間が多かったです。「とても優秀な人だ!」と思ったことが当時から何度もあり、その後の弁護士としてのご活躍も当然のことのように拝見していました。
小澤先生とは音楽などの話題が共通で、不思議と気が合い、一緒にゲーム喫茶に行ってインベーダー・ゲームをしたこと等もありました。若い方は「ゲーム喫茶」は分からないかも知れませんね(笑)。

岩瀬:小澤英明法律事務所の非常勤顧問としての抱負みたいなものもお聞かせいただけますか。

山田:小澤先生は弁護士としての力量を十分にお持ちですが、裁判官としての約40年にわたる私の実務経験が、訴訟を見据える必要がある小澤先生の案件に何らかの形でお役に立つことがあればと思っています。小澤先生に続く、二人目の弁護士として、事務所の発展に貢献したいですね。どこまで役立てるか分かりませんが、小澤先生と仕事ができることをとても楽しみにしています。

岩瀬:本日は貴重なお話をありがとうございました。素晴らしいご経歴なので、気後れしそうでしたが、笑顔の素敵な明るいお人柄で、堅い裁判官のイメージが良い意味で変わりました。