インタビュー 大村 謙二郎

岩瀬香奈子さんにインタビュアーになっていただいて、当事務所メンバーにインタビューをしていただきました。岩瀬さんは、株式会社アルーシャの代表取締役であり、その事業において難民を積極的に雇用されるなど難民の支援に熱心に取り組んでおられるとともに、長年弁護士のヘッドハンティングにも従事され、弁護士業界に通じておられます。

岩瀬:東大の理系は入学した後に専門分野を決められると聞いていますが、大村先生が東大都市工学科に進まれたのはどういうことからでしょうか。また、都市工学科とはどういう学科なのですか。

大村:僕は1966年に東京大学に入学したのですが、僕らの頃は高度成長期で、入学する2年前の1964年に東京オリンピックがあり、ダイナミックに都市が変わっていく様子を目の当たりにして、そういう時代の雰囲気もあり、大学3年生で専攻を決める際、何となく「建築」、もっと広い意味で「都市計画」という道に興味を持ちました。当時、丹下健三さんという世界的に有名な建築家・都市デザイナーも東大都市工学科にいて、東京の大改造プランを提案されていたり、「都市計画を学べる学科だ!」と興味を持ったのです。
そもそも、工学部の本流であった電気や機械学科等よりも、デザイン等創造性のあるものに興味があったのです。
都市工学科は、50年以上前に出来た学科ですが、戦後の理工系ブームの中で出来た、工学部の中では新設の学科で、高山英華先生という方が主導的役割を果たして創設されました。土木工学科の土木・衛生工学、建築学科の都市計画学等の分野が合体してできた学科であり、当時建設省(現・国土交通省)の技官や研究者等様々な方が教員として学科創設に参画されました。

インタビュー 大村 謙二郎

岩瀬:大村先生は、都市計画の分野では第一人者だと小澤先生からうかがっていますが、都市計画の分野に関心をもたれて研究者の道に進まれたきっかけを教えていただけますか。

大村:1966年に東大に入学し、68年に本郷に移ったのですが間もなく安田講堂で“闘争”が起こり、大学中ほとんど勉強はしませんでした。混乱していて直ぐに大学院に進学する気分ではなく、卒業間際に先輩の紹介でIBS(計量計画研究所)というシンクタンクに入りました。この研究所では大型コンピューターを使って交通計画を中心に、政府や自治体の調査を行っていて、「パーソントリップ調査」という大きな研究プロジェクトをやっていました。個人が一日にどのような交通行動を行うか等の調査解析をして、将来の交通事情を予測する等、特色ある研究をしている機関でした。

岩瀬:大村先生はドイツに留学されたとうかがっていますが、きっかけとドイツ留学時代のことをお話いただけますか。

大村:IBSで調査していた頃、「都市計画って、コンピューターでデータ解析していることで、こういう感じで良いのだろうか」とモヤモヤし始め、ドイツに留学している親友のO君に伝えたら「ドイツに来てみたら?」と言われ、ドイツに留学することにしました。戦後の日本は「何でもアメリカ」という雰囲気もあり、ちょっとヘソ曲がりな僕は、皆とは違うドイツに興味を持ちました。ただ、そこから、ドイツ語を猛勉強し始め、先生方に推薦状をもらいました。その親友Oの恋人で後に彼の奥さんになったドイツ人女性にはドイツの大学への研究申請に際して、随分手伝ってもらいました(笑)。僕の方は少し早くドイツに行き、その後、妻が出産したばかりの生後3か月の娘を連れてドイツにやってきたので、ドイツ留学当初は子育てで大変でした(笑)。両親が近くにいませんから、日本から持っていった育児書も読みましたよ。実は妻は大学時代に6か月程ドイツに滞在したことがあり、はじめの頃は僕よりドイツ語が出来たので助かりました。
留学したドイツのカールスルーエ大学は工学や建築で最も歴史のある工科系大学なのですが、1970年代初頭以降、ドイツの都市計画、空間計画は大きな転換期でした。カールスルーエは計画都市で、お城を中心に放射状に広がる計画的バロック都市で都市計画の世界では有名です。中心部の3分の2は森林で今でも残っています。
20世紀初頭に、リベラルな考えの下で創設されたバウハウスという総合建築芸術スクールがあります。そのバウハウスの創設者W.グロピウスが中心になり、計画的な住宅地開発をされ、カールスルーエのダマーシュトックという地区があります。近代的で衛生的で機能的な集合住宅地が作られましたが、偶然そちらの一角に住むこともできました。当時は、昔の古いフォルクスワーゲンでドイツ全土を家族で回りました。20代後半での貧乏留学生だったので、大変でしたけど今となっては良い思い出です。

岩瀬:ドイツと日本のまちづくりは大きく異なるように思います。どうしてドイツの街並みはあんなに美しいのでしょうか。都市計画自体が全く異なるのでしょうか。

大村: 日本と都市の構成原理が違いますね。ヨーロッパ大陸は防御壁を造って都市を護るのが通例で、都市と周辺の田園地域の差異が明確で、その点は日本の都市とは異なります。ただし、近代都市計画の成立過程を調べると、19世紀頃はドイツでも建築自由の時代で、無秩序な建築が広がっていたのですよ。今でいうスラムのような高密で不衛生な問題市街地も出来ていました。これは問題だと20世紀初頭から、低密度で機能的な市街化を誘導するルールが定着され改善されてきました。
日本は、ハード面で街並みは美しくなく乱雑のように見えますが、清潔で、治安も良く、便利で居心地のよい市街地という長所も存在しています。一方でドイツの街はある面で息苦しさを感じるところもあります。一見、市街地環境を含め違いは大きいように感じても、実は考え方としては似ている点も多く、学び合える部分があるのですよ。

岩瀬:ドイツからご帰国後のことをお聞かせいただけますか。

大村:1976年に帰国しIBSに戻ったのですが、将来について川上秀光先生に相談に行ったところ「戻って来い」と仰っていただき、1977年から東京大学都市工学科の助手になりました。大学では演習が重要になるので、プロジェクト型演習、都市再開発の演習等をやりました。僕も若く、大学院生と研究会を自主的に開くなど、様々な活動をしていました。あらためて勉強することが多く、僕自身は博士学位の取得に7年程掛かってしまいましたが(笑)。
その頃は面白い出会いが沢山ありました。建設省の出身の下総薫先生にも可愛がってもらいました。下総先生の研究室に小澤さんがいらして、下総先生のゼミに私も参加し、小澤さんとはそこで知り合いました。学外では、下総先生が主催された「チューネンの会」という数ヶ月おきに食事をしてお喋りする会を行っていて、まだ20代の小澤さんも参加され、親しくなりました。僕もまだ30代の頃です。ちなみに「チューネンの会」は「中年」とドイツの地理学者「フォン・チューネン」を掛けた会です。
しばらくして、建築研究所の建設経済室長のポストでお声掛けいただき移りました。その1年後には都市開発室長に異動したのですが。本省の方々とも調査研究のときには、色々とお声がけをいただきご一緒にお仕事しました。再開発地区計画制度が1987年につくられたのですが、制度作りの議論に関わることもでき、結局、36歳から10年間、建研にお世話になりました。
その後、筑波大学の公募人事ポストがあり「応募しないか」と声を掛けてもらったので、応募しまして、何とかポストを得ることができました。そこからずっと筑波大でした。改めて振り返ってみると、人のネットワーク、ご縁に恵まれてきましたね。
当時は“御三家”として、東大の都市工学、東工大と筑波大の社会工学があり、そちらで教員を出来たことは幸運でした。46歳から64歳まで筑波大に勤めていまして、土地利用研究室を開いていました。多いときは研究室の学生・院生は20人以上いました。大学院生はアジアからの留学生も多く、非常に勉強熱心でしたね。

インタビュー 大村 謙二郎

岩瀬:大村先生は現在、全国市街地再開発協会理事長をされていますが、全国市街地再開発協会とはどういう協会なのですか。協会のお仕事は長くされているのですか。

大村:1969年に都市再開発法ができたのがキッカケで設立された協会です。1968年に都市計画法が大改正され現行の制度に繋がっているのですが、同時期に、それ以前の市街地改造法や防災のための法律等が統一され都市再開発法ができました。それに合わせて協会が設立されました。協会は、市街地再開発を推進する自治体、民間企業や関連する建築系企業等が中心となる会員制の協会です。再開発のための調査、研究、講習会を行ったりしています。
最近は、再開発も大きな曲がり角に直面していますが、僕自身は、昔はマスタープラン作成等に関わってきましたが、近年はプロジェクト審査等のお手伝いをしていまして、そういう意味で協会とは長い付き合いです。

岩瀬:協会の皆さんの現在の最大の関心事はどういうものでしょうか。

大村:従来は、鉄道駅を中心に駅前広場を作ったりする典型的な“駅前再開発”が大きな役割を果たしていました。「大きな床をつくり提供し利益をあげる」という形で、駅前ビルやデパートが出来てきましたが、最近は都市の縮退が始まり需要が縮小して来ていますね。東京を見ていると実感が沸かないかも知れませんが、地方都市では中心市街地が顕著に衰退して来ているので、新陳代謝や地区の再生を考えていく必要があります。そこは会員の大きな関心事ではありますね。今後、インバウンドで外国人が増えていく都市もあるかと思いますし、今までのやり方とは違う時代環境の変化に合わせた都市開発が必要になると思います。上手くリノベーションするとか、ハードとソフトの技術や手法が求められていますね。

岩瀬:大村先生は、筑波大学退職後GK大村都市計画研究室を主宰されて都市プランナーとしてもご活躍とお聞きしていますが、どういうお仕事をされていらっしゃいますか。

大村:いえいえ、活躍していませんよ(笑)。都市計画は行政の計画作りに関わることが多く、筑波大学時代は地元の茨城県の方々、埼玉県、東京都の幾つかの特定地域の方々とお付き合いがあり、新たな計画作り等の委員を務めていました。今でも続いているお仕事もあります。また、コンサルタントから相談を受けることもあります。ボランティア的仕事も多いです(笑)。

岩瀬:日本の都市、例えば、東京は、今後どういう都市になってゆくのでしょうか。

大村:個人的には、今の東京は昔の大改造ブームの再現に近いような感じがありますが、冷静に考えると、床の過剰供給等危うい感じがします。1棟で800世帯のタワーマンション等も30~40年経って老朽化し大規模改修、修繕する際、費用分担が皆で出来るのか等、課題が多いと思います。似たような世代が入居しているので、65歳以上の住人が30%以上になるとか、子育て層のピークが過ぎたら近隣の小学校が余って来る等、地域に変化が起こるので、緩やかに段階的に都市を開発、整備していくことが大切ですよね。
東京においては人口が集積していますが、国際的な人の出入りもあり多様化していくのではないかと思います。生産人口が日本では足りなくなりますから、外国人の大量受け入れがあるかも知れません。何か問題が生じたときに軋轢や排外主義等が起きる可能性もありますし、これまで経験のないことなので、どうなるのか心配もあります。

岩瀬:専門的なお話になってしまうかもしれませんが、先生がこれまで書かれた論文や書籍で会心の出来と言いますか、代表作とお考えのものをお話しいただけますか。

大村:1888年に日本で最初の近代的な都市計画法である東京市区改正条例ができました。その100年後の1988年に東京市区改正条例100年を記念してイベントを行おうという話が出てきました。当時、恩師の川上先生が都市計画学会の会長だったこともあり大きな国際会議をすることになりました。当時はバブル時代で、多くの企業の協賛も得られました。その際、会議のみではなく、記念書籍を出版しようということになり、『近代都市計画の100年とその未来』というオールカラーページの書籍を部数限定で出版しました。この書籍の全体の構成案づくりに参画し、あわせてドイツに関する箇所を担当執筆しました。
また、翌年、再開発法が出来て20年となり、協会設立20周年でもあるため、協会が中心となって書籍を出版することになりました。高山先生が委員長で、川上先生に指示され、住宅新報社で出版しました。江戸時代からの日本の再開発の歴史を取りまとめたもので、当時の関係者にインタビューしながら製作しました。この辺りは、とても一生懸命に取り組みましたので、思い出深いです。

岩瀬:現在、とくに、ご関心の高い研究テーマをお話しいただけますか。また、究極的に目指されているもの、ライフワークをお聞かせいただけますか。

大村:これまでドイツに焦点を当て、近代都市計画が如何に出てきて、如何に発展してきたか、日本との比較等を研究してきましたが、現在のポスト成長時代の変化は目覚ましいですよね。今はそちらに非常に関心を持っています。
先進諸国は家族や世帯の在り方も変わってきています。所謂標準世帯の概念が成立しない程、単身世帯が増えていま。情報技術の進展、社会経済環境の変化も著しいものがあり、現代都市計画をどう理解し、どう考えていけば良いのか、大変興味深いです。欧米型とアジア型とも違うと思いますので、勉強したいと思っている関心事です。生涯勉強ですね。

岩瀬:先生のこだわりとか、座右の銘とか、好きな言葉などお聞かせいただけたらと思います。

大村:特にありませんが、まあ「楽観主義」です。また、「着眼大局着手小局」という言葉は好きで大局観を持つことは重要だと考えています。都市計画の仕事においても必要且つ大事なことです。

岩瀬:高校生(子供)の頃は将来何なりたいとお考えでしたか。

大村:漠然と「自由度のある仕事」に憧れていまして、学校の先生や独立した自由業みたいな職業分野に興味がありました。父親がサラリーマンだったのですが、何となく「サラリーマンより自由業が良いな」と思っていました。特に「〇〇になりたい」というものはなかったです。

岩瀬:プライベートなことで恐縮ですが、ご家族は?

大村:妻と娘と息子と、今は孫も3人います。子供たちは独立して、海外勤務やそれぞれがんばっているようです。

岩瀬:休日は何をして過ごされていますか。ご趣味などお聞かせいただければと思います。

大村:週末はテニスを3~4セットして汗を流しています。あと、教え子が半年毎に「大人の街歩き」に誘ってくれています。新しい街を回りながら、沢山歩き、美味しいものを食べて1日を過ごすのですが、毎回楽しんでいます。教え子の気持ちも嬉しいものですね。

岩瀬:小澤先生とはどういう先生ですか。

大村:小澤さんが20代、僕が30代の若い頃からの知り合いですが、最近は「土地は誰のものか」を考える研究会でよくお会いしています。小澤さんは本当に優秀でご活躍で、お人柄も温厚で、とても信頼しています。

インタビュー 大村 謙二郎

岩瀬:今回、小澤先生が開設された新しい法律事務所に顧問として参加されることになりましたが、理由と言いますか、抱負のようなものをお聞かせいただけますか。

大村:お声掛けいただいたときは、とても光栄に思いました。お役に立てることがあれば嬉しく思っています。

岩瀬:今日はありがとうございました。