高橋英夫(2020年6月)
2020年6月11日
小 澤 英 明
2020年5月1日金曜日、禁ヲ犯シテ外出ス。池袋のジュンク堂(書店)に出かけた。月に2回ほどは通っているところで、2か月ほど行かなかった。しかし、妻の誘惑に負けた。妻は池袋の西武デパートの食料品売り場に行きたくて、一人ではうしろめたいのか、池袋行きを強く誘った。「妻が妻が・・・」と言い訳しながら、妻の車に乗った。ジュンク堂は池袋西武から歩いて3分ほどの距離にある。緊急事態宣言期間であるから、ジュンク堂も土日祝日は休業で、週日も夕方6時までで、5時以降は混むので早めに会計はすませてくださいと案内がある。
3階は文庫や文芸のフロアだが、文芸の目につく棚に高橋英夫「五月の読書」があった。奥付を見ると、2020年4月24日発行とあり出たばかりである。その奥付のページで高橋さん(敬称をつけないと落ち着かない)が昨年亡くなっていたことを知った。高橋さんは、1930年生まれで、ドイツ文学を専攻し、いくつかの大学で語学教師をされたが、文芸評論で活躍された。文芸評論家には、鹿島茂のいわゆる「ドーダ」の人が多く、辟易させられるが、高橋さんは、そのような性癖がない。
自宅の書棚にはいくつか高橋さんの本がある(写真参照)。これらの本には、高橋さんの読書遍歴がわかる文章が詰まっている。高橋さんはクラシック音楽が好きで、音楽にふれた文章が多いのも魅力である。例えば、「音楽が聞える」では10人の詩人たちをとりあげ、その詩人たちの音楽との係わりが書かれている。その詩人の中には串田孫一(1912年―2005年)も含まれ、串田の「よく知られているエッセイの一つ『分教場のバッハ』」がとりあげられている。そのエッセイには、山の分教場に寄贈されたオルガンの弾き初め会に串田が招かれたときの思い出が書かれているのだが、学童12人が集まった中で弾き初めをしたのは、50過ぎの紋付羽織の婦人だった。そのエッセイの「彼女はオルガンの傍まで行ってから、後でみなさんも習ってよく知っている歌を弾かせてもらいますが、はじめに私の好きな曲を弾かせて下さい、とそれだけをはっきり言うと新しいオルガンの前に腰を下ろした。」とある部分が、高橋さんの本に引用されている。その曲とはバッハの「パストラール」だった。バッハのパストラールの美しさを知らないと、串田のそのエッセイの真価は味わえないが、日本のどこかで、このような光景が実際に出現したのである。その紋付羽織の婦人は、ただ純粋に音楽を愛する気持ちから、弾き初めの曲として、この曲を選び、弾き始めたに違いないが、そこに串田という最良の聞き手がいた。山里で人知れず教育に身を捧げていた昭和の知的女性の姿を浮かび上がらせた串田の名エッセイである。高橋さんは、多くの書物の中から、このように世の中の良質なものをすくいとり、我々に示してくれた人だった。
高橋さんは長年練馬区羽沢にお住まいであった。「本の引越し」には、ご尊父(東大で佐野利器、内田祥三などに学んだ構造専門の建築家で、同期には霞が関ビルの構造設計で有名な武藤清がいた)が設計されたご自宅の建物(道路整備事業で既に除却済み)の写真が収められている。応接間から続いて庭に張り出した小書斎(62頁)がいい感じである。