最小限の規制と最大限の自制(2020年5月)
2020年5月8日
小 澤 英 明
林望さんの「ホルムヘッドの謎」というエッセイ集(1992年)に、「イギリスに住んでいて、なんだかこう『住み易い』という感じがするのは、たぶん何につけても規制が少ないからであろうと思われる。 『最小限の規制』と『最大限の自制』 イギリス人の胸の内を割ってみればきっとそのように書いてあるものと想像される。」と書かれている部分がある。
昨年(2019年)8月に気心の知れた人たちと一緒に「土地はだれのものか」(白揚社)という本を出版したが、その検討過程で、日本の土地所有権は強すぎるという議論があった。確かに、「土地所有権」というものをひどく恐れて、土地の利用に対する規制に及び腰だったり、他人に迷惑をかける自分勝手な行為が、「土地所有権」という財産権の行使の名のもとに裁判所でも大手を振って認められたりしているのは、いかにもおかしなことであって、そのような状況を強すぎる土地所有権と表現することは、不合理なことではない。ただ、私は、そのような状況は、勝手なふるまいをする日本人が多いことにもよるのだから、強すぎる土地所有権という問題としてとらえるのはどうだろうか、そのようなとらえ方では規制が足りないという議論になってしまうのではないかと問題を提起したことがあった。しかし、強すぎる土地所有権という表現で、問題として改善したい状況を明らかにできることも確かなことだから、それ以上の議論には発展しなかった。私がその問題をその時点で持ち出したのは、その頃、林さんの上記エッセイを読み返したことがきっかけだった。
今回、コロナ問題で、営業を制約するなら補償することが当然だという議論が強く出された。しかし、この議論が誤っていることは、法律を学んだ者にはわかることで、公共の福祉から一般的な制約が必要なのであれば、補償はセットではない。ただ、制約を行って自由を奪うだけで放置していいのかという問題は当然に別にある。しかし、これは、政策問題であり、経済秩序の崩壊を防止し、生活困窮者を救うという観点で議論されるべきことである。評論家の中には、休業要請とし、休業命令としていないから補償問題があやふやになるのだという議論もあるが、命令であっても、公共の福祉から必要であり、命令を受ける者の損失が特別偶然の損失でなければ、補償は不要であって、要請か命令かで補償の権利についての判断が左右されることはない。むしろ、今回のような非典型的な異常な緊急事態では、タイムリーに事細かに上から規制をすることは事実上不可能であって、また、おおざっぱに割り切った規制だけで処理しようとすると、立法者の想像力の限界から、規制時に想定していない事態には対応できず、かえって社会的混乱をもたらし、不満を爆発させかねない。その意味で、命令ではなく、要請や指示という罰則を伴わない処理は、実効性を合理的に期待できる場合は、賢い政策選択である。今、日本は、コロナ問題という未曽有の難局で、「最小限の規制と最大限の自制」という良識でどこまで対応できるかが試されている時期だと思う。
なお、事実上営業ができない期間も賃料が発生するのかという法律問題は、法律家が裁判所でどのような裁判がなされるかを想定して解説すべき論点であるが、これについては、4月6日に「新型コロナウイルスと建物賃貸借Q&A」のコラムで私の考えを述べた。