吉田秀和(3月)
2018年3月30日
小 澤 英 明
高校生の頃からクラシック音楽が好きになり、今でも夜は2時間ほど何かしら聴いているので、趣味というと、これに一番時間をかけている。高校生の頃から、導き手は吉田秀和で、私にとっては恩人である。大学生になった頃、白水社の吉田秀和全集が次々に発刊された。その第7巻に「私の音楽室」があり、これが名曲案内となっている。これを繰り返し読んだものだから、第7巻だけはクリーム色の布製の本が薄汚れてしまっている。私は、吉田秀和の圧倒的な感化を受けてクラシック音楽に親しんだ。同様の同世代人も多いと思う。
ところで、吉田秀和がドイツオーストリア音楽を一番尊いものと思っていたことは疑いがない。したがって、私も長い間そのような意識から抜けられなかった。ただ、少しずつ、その他の国々の音楽にも親しむようになって、その意識から今は解放されたように思う。吉田秀和はヴィヴァルディの音楽を「音楽としては、たいしたものではないが」などと書いていて、また、サンサーンスの音楽を「なんという安っぽさ、俗っぽさだろう!」などと書いていた。こういう記述に影響を受けた時期が長かった。権威にしたがうことを軽蔑していたはずの自分が権威にしたがっていたわけである。
モンセラート・カバリエのCDの中に、ヴィヴァルディのアリアを集めたものがある。聴きすぎてCDケースがバラバラである。その中に「私は蔑ろにされた妻」という、すごいタイトルの曲がある。また、カバリエには、サンサーンスのサムスンとデリラのオペラの中の「あなたの声に私の心は開く」というアリアをおさめたCDもある。前者は、これだけ悲痛な女性の心情があらわれているものはないのではないかという気持ちにさせられるものであるし、後者は、男の心をとろけさせるにこれ以上の曲はないという気持ちにさせられるものである。いずれも名曲である。
ただ、私も、一番好きな作曲家はと聞かれると、バッハと答えるだろう。やはりバッハは群を抜いている。その曲の中のどれかを選ぶなど、とてもできない相談だが、先日、久しぶりにヨウラ・ギュラーのCDを聞いて、大学生時代をなつかしんだ。そこにおさめられている曲にバッハのプレリュードとフーガイ短調(リストによるピアノ編曲)がある。大学生時代、この世にこんなに美しい曲があるのかと心を動かされた曲で、今聴くと、当時ステレオがあった実家の部屋の雰囲気までなつかしく思い出される。