「二者択一」顧問早水輝好

コラム第12回

二者択一

2021年9月22日
早 水 輝 好

 私は二者択一が苦手である。買い物に行くと、特に服のようにデザインがいろいろある場合は2種類ぐらいまでは選択できるのだが、最後のAにするかBにするかの決断ができない。お店で迷っていると店員にも迷惑なので、迷ったときは1度で決めず、日を改めて買うようにしている。今はスマホがあるので、写真を撮って持ち帰り、家内に相談することもある。写真では色がうまく出ないのが難点であるが、それでもデザインなどについてアドバイスを得ることはできる。
 決められない時には中間をとるというルールも決めている。例えばあと30分しか時間がないがAをやるかBをやるか迷ったときは、AもBも少しずつやることにしている。それぞれが中途半端でも、ある程度進捗して先が見えたことに満足してその日を終えれば次の日の発進がスムーズと考えるのである。1時間ドラマの録画を見たいが45分しか時間がない、さあどうしよう、というときは、30分だけ見てあとは明日にする、という具合である。ルールを決めておけば迷うことも少ない。
 こういう性癖があるので、自分は管理職には向かないと若い頃は思っていた。いろいろとアイディアは出せるし、人を助けて喜んでもらうのが好きだったので、ずっと補佐役の方がいいと思っていたのである。しかし、役人になると(あるいは役人でなくても通常の会社勤めであれば)遅かれ早かれ管理職になる日が来るし、私にもやってきた。その頃になったらある程度のことは自分で決められるようになっていたが、重要な決定は1つ上(部局長級)の上司に委ねた。しかしある時、「課長なんだからそれぐらい決めろよ」と上司に言われ、これはまずいと思って、それ以降は「AかBかどちらがよいか」ではなく「Aで行きたいが差し支えないか」と相談するようにした。
 課室長級の管理職でもこんなに迷うのだから、一国の総理大臣なんてよくなるなあ、と日頃から思っていた。自分の判断で国や国民の運命を決めるなんてとてもできない。今回4人もの人がやろうと言っている。すごい覚悟だと感心する。

 今夏の東京オリンピック・パラリンピックでは究極の二者択一があった。それはオリパラを開催するかどうかの菅総理の最終判断ではなく、いつまで延期するかの安倍前総理の決定である。延期はやむを得ないが、2021年か2022年か。森喜朗オリパラ組織委員会会長が2022年でなくていいのかと聞いたが、2021年で行くと決めたと報道されている。
 一度延期と決めたことをとりやめるのは国際的な信用問題につながるし、まして後ろに北京オリンピックが控えているからアジアの顔としても面目丸つぶれである。だから「2021年開催」を引き継いだ菅総理には「予定通り開催」の選択肢しかなかったと私は考えている。関係者の努力によりオリパラを震源とした新型コロナのクラスターは発生せず無事に大会を終わらせたことで、国際的な信用は何とか確保された。しかし、開会期間中に感染者数が増加してオリパラ自体が不幸にも手放しで歓迎されないものになり、無観客にせざるを得なかったので外国人観光客増加のあても外れて景気浮揚にはつながらなかった。結果的に「2021年開催」とした二者択一の判断は甘かったと多くの人が思っているのではないだろうか。
 オリンピックをいつやるかの判断は、未知のコロナとの戦いをどのように分析して予測するかという極めて難しいものだったに違いないから、判断の責任を結果論で問うのは酷かもしれない。ただ、本来科学的な知見をもとに客観的に考えなくてはいけないのに、他の政治的要素も考慮されての判断だっただろうから、やはりその責任は判断者に帰結する。総理大臣ともなれば二者択一の決断は限りなく重いことの証左である。次はどの人がこの重い役回りを引き受けることになるのだろうか。

 振り返ると、私自身の最大の二者択一は、就職先を決める時にあった。忘れもしない昭和57(1982)年10月18日、中日ドラゴンズが最終戦で勝てば優勝という試合の日だった。私は大学の研究室にいて、午後から横浜球場に行くことにしていた。予定より少し出発が遅れてまさしく出ようとした時、環境庁職員である同じ研究室の先輩から電話があり、環境庁で採用したいので明日来て欲しいと言われたのである。
 その時点で私は国家公務員試験と某自治体の地方公務員試験と両方の合格通知をもらっていて、公害対策を現場に近い地方自治体でやりたかった私は某自治体に行くつもりでいた。私は球場に行くのをあきらめ、すぐに自治体の担当者に電話して会いに行った。ところが、担当者は、ぜひ来て欲しいとは言わず、なんで東大生が地方公務員になりたいのかわからないといった雰囲気で、こちらに来ても下水処理場でメーターを見るような仕事もありますよ、という感じの回答だった。
 私は迷った。中日ドラゴンズは「田尾の5敬遠*」もあって快勝し優勝を決めていたが、それどころではなかった。その日は結局徹夜で考え抜いて、朝になってやはり初志貫徹、地方で頑張るべきだと思いながら実家の母に電話をしたら、あっさり「それは来て欲しいというところに行った方がいいんじゃない?」と言われてしまった。それまでの迷いが消える一言だった。「確かにそうだ」と思って、結局環境庁に行くことにしたのである。
 結果的に見ると母の一言が自分の人生を決めたことになるが、「来て欲しいところに行った方がよい」というのが「腑に落ちた」ことが決め手になったのであるから、私はこの選択を後悔したことはなかった。たぶん自分の心の中にあったが眠っていた(眠らされていた)同じ考えが引き出されたのだと思う。

 多くの場合、二者択一の影響は自分個人に跳ね返るだけだが、よくよく考えると、環境庁・環境省での仕事の中で、環境保護を優先するか、事業活動に配慮するかの二者択一の政策判断を結構やっており、その選択は総理の決断よりはるかに小さいレベルだが社会に何らかの影響を及ぼすものだっただろう。就職時の経験から、判断に迷ったときはいろんな話を聞いて「腑に落ちる」すなわち無理がない「常識的な」結論になるような選択をしてきたように思うし、「中間をとる」ような判断をしたこともあったように思う。その中でもできる限り環境保護寄りの選択をしてきたつもりだが、あれはもっと改革的(環境保護的)にすべきだったか、これは逆にやり過ぎたか、などと退職してから自問自答することもある。
 私のように服も選べないような人間は政治家には向いていないとずっと思っていたが、国家公務員の仕事も似たようなものだったのかもしれない。環境庁に就職したときの高い志での選択が果たしてどこまでできただろうか。いずれにしても、あとは未来を生きる若い人たちの選択に委ねることにしたい。
 再就職したので仕事上の判断がなくなったわけではないが、これからは日常生活の中でどうでもいい二者択一(実はこういうのが一番迷うのだが)を楽しく悩むようにしていければと思う。

 「広瀬正」という作家をご存じだろうか。日本のSF界の草分けの一人だが、早世されたのであまり知られていない。その作品の1つに「エロス」というのがある。(エロティックな物語ではない。念のため。)柱時計の小さな彫刻の個数が奇数か偶数かで選択した1日の行動が主人公のその後の人生を決定づけ、もしあの時もう1つの選択をしていたら人生がどうなっていたか、という「もう一つの過去」が「現在」とともに語られるストーリーである。最後にSFらしいどんでん返しが待っている。人生の二者択一の行く末に興味のある方は、集英社文庫で復刻されているので読んでみて下さい。

広瀬正の「エロス」と代表作「マイナス・ゼロ」(集英社文庫)

* 田尾の5敬遠:対戦相手の大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)の長崎選手がこの時点で僅差の首位打者だったため、中日の1番バッターで打率2位の田尾選手は打たせてもらえず全5打席敬遠四球となった。田尾はこのうち2回ホームを踏み、試合は8対0で中日が圧勝、8年ぶり3回目のセ・リーグ優勝を決めた。中日が負ければ優勝だった2位巨人のファンはこの対応に激怒したが、優勝に関係ない大洋にとっては試合の勝敗より自軍の選手の首位打者の方が重要だったのである。