「ドイツの小さな町ブラウボイレン」
2018年11月30日
大 村 謙 二 郎
ブラウボイレンの現在(ブラウボイレン市のホームページより)
https://www.blaubeuren.de/de/Wirtschaft/Wirtschaftsstandort
1974年の5月末、初めてドイツ(旧西ドイツ)を訪れることになった。ドイツ学術交流会DAADの給費留学の形で、ドイツ西南部の中核都市カールスルーエにあるカールスルーエ大学で都市計画を学ぶために、その年の10月から入学する予定であった。その前に、ちゃんとドイツ語が理解、使用できる程度の力を身につけるようにとのDAADの配慮で4ヶ月間、ドイツ国内にある、語学研修機関のゲーテインスティチュートに入ることになった。ドイツ語に自信がある人、読み書き、聞き取りに不安がない人は、語学研修を2ヶ月に短縮したり、語学研修をパスしたりすることも制度的に可能であったが、私の場合は、一応、大学の教養課程でドイツ語を学んだといっても、ドイツ語で日常生活を送れるなどというレベルから、ほど遠い状況であったので、初心者向けのドイツ語研修から始めたいとの希望を出した次第である。
当時、西ドイツ国内には、小さな都市や町、村にゲーテインスティチュートが数多く分散立地していた。また、各ゲーテインスティチュートには語学研修生受け入れの寮があり、たりない分は立地市町村内の民家で研修生に宿泊場所を提供しても良い家庭に受け入れてもらうシステムを採用していた。現在のドイツ国内でのゲーテインスティチュートの立地は、ベルリン、ハンブルク、ミュンヘン等の大都市が中心で、小さな市町にはなくなってしまった。ドイツ政府の方針が変わり、ゲーテインスティチュートへの補助が削減されたのか、あるいは寮を維持したり、民間のボランティアに宿泊場所を提供してもらったりするのが困難になってきたのかも知れないが、残念なことだと思う。
さて、ドイツのどこのゲーテに入りたいかを事前に申請することが出来るシステムになっていた。皆目見当がつかなかったのだが、前年にDAADの留学生として2年間、ハンブルク大学に留学していて73年夏に帰国していた親友のO君とその奥さん(ドイツ人)の助言に従い、ドイツ西南の小さな町がよいだろうと言うことで、第1希望にフライブルク(大学都市で、環境都市としても有名な都市)の近くの小さな町、シュタウフェンかウルム(世界一高い尖塔をもつ大聖堂で有名な都市)近くのブラウボイレンを薦められ、そのように希望を出した。結局、第2番手のブラウボイレンが語学研修地となった。DAADの規定では配偶者がいる場合は、渡航費、語学研修費用も支給してくれると言うことで、連れあいも、是非一緒に行きたいと思っていたのだが、DAADの合格発表された時(1973年年末)にすでに妊娠しており、8月末が出産予定日ということで、家族同伴の希望はたたれることに。結局、連れあいは生まれて3ヶ月の娘を連れてドイツ、カールスルーエにやってきたのは11月末のことであった。
5月の末、羽田空港を出発してモスクワ経由でフランクフルトにつき、その日はフランクフルトで宿泊。翌朝、フランクフルトからシュトットガルトに飛び、そこから、列車を乗り継いで、ウルム経由でブラウボイレンに着いた。当時、専門は違うがDAADの留学生として語学研修をブラウボイレンで受ける日本の方が数名いて、同行していったのだと思う。どういう形でそこにたどり着けたのか記憶が飛んでいるが、何とかその日の午後にブラウボイレンのゲーテインスティチュートにたどりついた。事前に友人O君夫妻に、個室を希望すると述べるように言われていたのだが、ゲーテの事務担当の人にその思いを伝えることはできず、結局、町中の未亡人の住宅の一室が滞在先として割り当てられ、そこに行くことになった。
下宿することになったお宅は閑静な住宅地にある一戸建ての2階建ての住宅で、1階は大家さんのK夫人(50代後半か60代前半の小柄で小太りの女性)が生活し、2階にある3室が語学研修生の部屋に割り当てられていた。私は比較的大きな部屋(8畳分くらいはあったろうか)にインドネシアからの語学研修生(多分20代前半)と同室となった。他の2人は、個室があてがわれ一人は30代のイランのビジネスマンでドイツ語習得のために、もう一人はケニアからの留学生と思われる人だった。イランの人とは後に、親しく話をすることになったが、インドネシアとケニアの研修生とは話をすることはあまりなかった。
Kさんのお宅ではトイレは使えるが、バス、シャワーは使えず、また、食事などは提供されることはない。また、冷蔵庫などもなく、ちょっとした食料、飲料を買って保管することもなかなかできなかった。あまり、快適な下宿生活とはいえなかったが、何せ、ドイツ語で意思伝達がまだまだできないのだから仕方ない。
ゲーテでの語学研修は朝8時から午前中いっぱいでおわり、午後は基本的に自由時間であった。ゲーテの建物は小高い丘の上にあり、下宿先から徒歩で15分程度の距離にあった。世界各国からの語学研修生が集まっていた。日本人も総勢で10数名近くはいたのではないだろうか。その中には、私費でドイツの大学にこれから入ろうとする若手の人、有名企業のビジネスマンや、私よりはシニアの方で、フンボルト財団の奨学金でやってきた研究者の方などもいた。
クラス分けにあたっては事前にペーパーテストがあり、ドイツ語習熟度に分けて、初級、中級、上級にクラス分けがなされるシステムとなっていた。各級の中も進捗度に合わせて段階分けがなされていたような記憶がある。試験成績が良くて、上級に配置されると大変な事になるので、せめて、中級にしてもらうことにした。ひとクラスの人数は30名以下のクラスで多様な国々、年齢層のひとが交じっていた。
朝食は7時頃から、ゲーテ内の簡易食堂が開いていて、パンとコーヒー、紅茶、ソーセージ、ジャムなど簡素なもの提供されていた。初めて食べるドイツのパンはブレーチヘンという皮の部分が固くて、中味がやわらかな、小さなパンでたいへん美味しく感じた。
だんだん慣れてくるとそれほどもなかったが、後にカールスルーエで家族と共に暮らすようになり、パン屋さんによって、パンの美味しさが違うし、数多くの種類のパンが存在していることを知った。貧乏留学生であったがいろいろなパンにトライするのはひとつの楽しみであった。今でも私は、ドイツはパンの種類の豊富さ、美味しさでは有数の国だと思っている。何よりも家族経営のマイスターが焼くパンは絶品なのだが、残念ながら、最近はチェーン系列のパン屋がスーパーや駅中に立地して、だんだんこういった味わいのあるパン屋さんが減少しているのは寂しい限りである。
語学の研修は実践的で日常生活でのコミュニケーションができることを主眼に置いていたが、それでもテキストの中にドイツ人の生活の仕方、生活文化、ドイツ人の行動様式など興味深い内容も伝えられ、少し会話ができるようになるとそれぞれの出身国との違い等について発表するような工夫も行われた。ゲーテでは外国語としてのドイツ語、ドイツ文化を理解させるというミッションを持っており、教師も資格を有する人が熱心に教育に取り組んでいた。2ヶ月間のコースが終えるときには女性教師を囲んでカフェでお茶をする機会を持ったものだ。
お昼と夜は外食が主体で、寮に寄宿している研修生などは共用の冷蔵庫、簡易なキッチン設備があり、そこで簡単な料理や町中のスーパーで買った食料で夕食を済ませることも可能であったが、民間家庭に下宿している身には外食が主体であった。
ゲーテでは1回、300円か500円分(このあたりは記憶が不確かだが)の食券を1週間5枚として4週分、20枚ほど提供してくれていた。この食券を使って町中のレストランで食事をし、値段が足りない分はそれぞれが追加して支払うというシステムを採用していた。だんだん生活に慣れてきて、また、研修生達との情報交換でどの店が美味しいとか、ウエイトレスの女の子が可愛くて、親切だとかを知り、そこによく行くようになった。基本的にドイツ系料理のレストランが多かったが、イタリアンのお店でピザ、スパゲティやオランダ系のレストランでインドネシアのチャーハンであるナシゴレンを食べることもあった。
ゲーテでの勉強は午前中でおわり、多少、予復習の時間をとるとしても午後はたっぷり時間があり、週末の土日は親しくなった友人達と近郊に小旅行することもあった。
少しずつ町中を歩き、町の様子を理解できる時間と余裕も出てきた。
ブラウボイレンは当時人口1万2千人近くの小都市であり西ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州に属し、近郊の中核都市ウルムの西方16キロメートルのところに位置している。ウルムまでは鉄道で20分前後の距離であり、ウルム就業者の住宅地としてブラウボイレンは良好な住宅地としても発展していた。また、当時は大きなセメント工場があり、その就業者の住宅地でもあった。ブラウボイレンには石灰岩が産出し、19世紀末には大きなセメント工場が作られた。ヨーロッパでも有数のセメント工場立地点であったブラウボイレン工場も1999年に閉鎖に追い込まれたとのことだ。ウキペディアによれば、現在ブラウボイレンには薬品製造の工場があるのとことだ。
最近のブラウボイレンの人口は当時とほぼ変わっていない。大きな発展もないが、それほど衰退しているわけでもなさそうだ。最新のドイツ鉄道の時刻表を見ると30分間隔で、ウルム行きの電車がでているようで、通勤住宅地としても一定の役割を果たしているようだ。シュベービシュアルプという地方に属し、このあたり一体には木組み住宅Fachwerkhausが多数存在しており、独特の街並み景観を有している。ブラウボイレンも歴史のある都市で旧市街は中世の街並みが残っていた。
ブラウボイレンの周囲は小高い山々が取り囲んでおり、天気の良い午後は周辺を散策でき町を眺望できるし、地域のレクレーション地、観光地となっている。特にブラウボイレンの名前の由来になっているのは町の外れにあるブラウトプフBlautopf(直訳すれば青い壺)という天然の泉の存在である。青色の水面が幻想的な雰囲気を持つ自然景観が有名で、隣接した木組みの伝統的な修道院の建物とあわせて、ちょっとした観光スポットとして多くの観光客も訪れているところだった。
人口規模は小さいが農村地域というよりは一定の都市機能は充実しており、この地域の観光拠点でもあったのだろう、小規模都市とは思えないほど、レストラン、カフェの数も多く、ホテルやガストシュテッテという集泊機能も兼ね備えた居酒屋兼食堂もいくつかあった。また、それほど豊富な選択肢があるとはいえないが、衣料品店、靴屋、家具店、スーパーなども備わっていて、華やかとはいえないがそれなりの都市性を供えたところであった。映画館も1箇所あったが、まだ、語学に不安があり、それほど何回も訪れることはなかった。街なかに郵便局があり、日本に特別な用事があるときに電話をした。若者向けのディスコもあり、これは語学研修生仲間と一二度いったような気がする。また市内にはギムナジウムがあり、大きなカソリック、プロテスタントの教会がそれぞれあった。
町の端から端まで歩いても小一時間ほどで到達できる、コンパクトな都市だが地域の拠点的な都市機能は一定程度備えていることには新鮮な驚きであった。また、日本の都市とも町とも区別がつかない市街地構造を知っていた者にとって、強烈な印象だったのは市街地の境界がくっきりしており、まわりは緑豊かな草原、農地、森林、丘陵地がコンパクトな市街地を取り囲んでいる様子が視覚的にも明確に見て取れる点であった。
シャワーは街なかにある、屋内プールに併設されたシャワー室があり、そこは小銭をいれると3分ほどシャワーを使えることになっていて、週に何回か利用した。日本の湿度の高い陽気と比べて、乾燥しているのでそれほど、ひんぱんに利用する必要もなかった。洗濯はどうしたのか、あまり記憶がないのだが、シャワー室を使って、下着や最低限の衣類の洗濯をしたのかなと思っている。少なくとも下宿先で洗濯した記憶はない。
快適とはいえないが、一定の都市的機能を備え、豊かな田園環境、自然景観に囲まれた小さな町ブラウボイレンの生活は充実していた。
1ヶ月くらいたって少しドイツ生活も慣れきたので、新聞の広告欄を見て、中古自動車を探すことにした。同じドイ語クラスのトルコ人で、ジーメンスという大手企業に勤めていて、企業派遣でドイツ語のブラッシュアップを目指している若者と親しくなった。彼は、ドイツでの中古車をどう購入したら良いかについて、アドバイスをいろいろくれ、週末の土曜日、親切にも彼は一緒にウルムについてきてくれた。中古車の売り場に行ったが予定した予算よりも高いものが多く、迷っていたら、新聞の土曜日版の中古車の広告を見てくれて、いくつかの候補を見つけることが出来た。
今では日本でもディーラーを通さないで個人間での中古車の売買は普通だが、当時、そんなことが出来るのかも知らなかった私には新鮮な経験であった。その日のうちに何人かの個人の中古車を見て、試乗もさせてもらい、予算の範囲内で買えそうな中古車を見つけることが出来た。所有者は車の知識が豊富な人の用で、メインテナンスもちゃんとしているように思えた。一週間後にその人のお宅を訪ねて、中古車を手に入れた。その後、保険や、登録などをどうやったのか、記憶が全くないのだが、よくやれたものだと思う。
手に入れた中古車は1963年製造のカブトムシの愛称を持つフォルクスワーゲンだった。この車には重宝して、その後2年近く、家族でドイツ全土や近隣諸国を旅行するのにもフルに活用させてもらった。
流石に2年近く走り回ったせいか、ある日アウトバーン走行中にエンジンがトラブルを起こして、動かなくなった。幸い、JAFにあたるADACのメンバーになっていたので、車をカールスルーエの住まいまで運んでもらった。その後、カールスルーエ大学のゼミで知り合ったドイツ人の親友の伝手で自動車に詳しい近所の人を紹介してもらい、中古のエンジンを購入、取り替えを格安価格でやってもらった。この当時から、ドイツではリサイクルシステムが確立していたのか、個人のDo it yourselfが容易に出来る仕組みが普及しており、その恩恵を受けたものだ。
ブラウボイレンに来てから、1ヶ月ちょっと立って、だいぶんここの生活に慣れ、車を手に入れたことによって、格段に行動半径が広がることになった。
ブラウボイレンはシュベーッシュアルプ地域に属し、この地域の人々は勤勉、働き者で、持ち家率も高く、豊かな地域に属していた。独自の食文化もありまた、シュバーベンという方言がひどく、後に知り合うことになる北ドイツの人々(この地域の人々はホッフドイツHochdeutschという標準ドイツ語を話す)に言わせれば、シュバーベンはドイツ語でないとのことだ。
ドイツはもともと、領邦国家に分かれており、近代的統一国家となったのは日本の明治維新よりあとの1871年である。いまでも全国各地に個性ある、都市・地域が分布している分散型国土構造であり、それぞれの地域、都市に住む人々のお国自慢、愛郷心は強いものがある。これは、今でも残っている部分だと思う。
この当時すでに、ドイツは自動車大国であり、アウトバーンや国道、地方道のネットワークが充実しており、また、明解な交通標識システムで、車でいろいろなところに出かけるのは容易であった。7月の半ばの週末、日本人語学研修生3人と一緒に私の車で、ロマンチック街道沿いの都市・地域を訪れようということになった。当時から、ある程度観光ガイドブックなどにはローテンブルク、フュッセンのノイシュバインシュタインなどは紹介されていたが、まだまだ、日本からの観光客はすくなかったと思う。
ロマンチック街道を北側から、ローテンブルクに向かって車を走らせると、小高い丘のところに市庁舎や教会の尖塔が目印となる、ローテンブルクの歴史的な中世風の都市の街並みがくっきり浮かび上がってきた。まさにおとぎの国を訪れたような感覚で、一同、感嘆の声を上げた。これが、ヨーロッパ都市の原型かと実感し、この印象は今も忘れられない。
ゲーテでの語学研修の2ヶ月がおわり、次の2ヶ月が始まることになった。次の語学コースが始まる間に一週間ほどの休みがあり、この機会を利用して車でミュンヘンやフライブルクに出かけた。また、多分、カールスルーエ大学にも出かけ、受け入れてくれる教授にも挨拶した。
最初の2ヶ月間の二人部屋生活はいろいろ不便を感じ、ゲーテの事務局と掛け合って、今度は個室の民間のお宅を紹介してもらうことになった。今度受け入れてくれたのはギムナジウム(日本の中学・高校にあたる)の先生をされていたご夫婦のお宅で、ここではもう一人、フランスからの語学研修生が個室を借りていた。このフランスからの若者とは結構親しくつきあった。
今度のお宅のご主人は謹厳実直な方であった。ゲーテの朝食が提供されない週末の朝食は一緒に食べようということで、朝食をご馳走になるのだが、物音を立てないように、また、パンくずを落とさないように、もし落とした場合もテーブルクロスをきれいにするためにちゃんと拾わなければといった具合で、緊張して食べるので結構疲れたし、また、話題も真面目なことが多く、それなりに勉強になったが、堅苦しくて、これはこれで大変だった。
3ヶ月目に入るとブラウボイレンは小さな町だし、新たな発見もそれほどあるわけではない。それでもいま思い返してみると、大学に入る前で、特に勉強すべき課題もないまま、のんびり、自由に楽しく過ごせた、至福の時間だったなと思う。
インターネットが普及し、瞬時に情報のやりとりができ、また、移動も格段に便利になった時代を生きる現代の人から見れば、小さな町ブラウボイレンでの生活は情報の伝達も遅く、孤立してさぞかし不便だなと思うかも知れない。当時、日本の家族とのやりとりは手紙が主体で、電話、電報はよほどのことがない限り使わなかった。事実、日本へ手紙を送り、その返事をもらうまでの時間は早くて10日間、平均2週間はかかった。だからといって、情報伝達の遅さのもどかしさを感じたことはなかった。また、小都市とはいえ、新聞、テレビでドイツの様子、世界の様子を知ることは出来た。ゲーテという、国際的な語学研修機関が存在していることで、多国籍の人が町の人々と日常的に接する機会が多くあり、その意味で、この都市は小さな国際都市だったかも知れない。当たり前であるが、当時の暮らしにおいて、格段の不便さを感じなかったし、こんな小さな都市でも何ら不自由なく、いろいろなサービスが享受できる、先進国ドイツのありがたさを痛感した。
たしかにブラウボイレンは小都市だし、刺激は少ないが、ちょっと移動すれば大きな都市ウルムで、買い物、娯楽、文化的刺激を受けることができる。また、ちょっと足を伸ばせば、自然豊かな保養地、歴史文化環境を享受することができ、当時のブラウボイレンの市民もこういった環境に満足していたのではないだろうか。
思い起こすと、日本も江戸時代は300諸藩に分かれ、それぞれの藩が独自の経済圏、文化圏を形成していた。多くの個性ある都市、町、村が各地に存在していた。私自身は職業柄、結構全国各地を訪ねることも多いが、それでも、日本にはまだ行ったことのない、魅力的な小さな町、村が数多く存在していると確信している。いま、地方創成ということで、東京ひとり勝ち状況の問題を指摘する声がわき起こっているが、大都市や中核都市だけに焦点をあてるのではなく、個性ある、小さな市町にも活力の芽を見いだすのが目指すべき方向だと思うのだが。
ドイツは連邦制をとり、各州の自立性も強いし、都市の権限も強く、分散・分権型国土構造を維持することを国土整備の重要な理念としている。そのドイツでも近年は大都市への人口、産業の集中傾向が強く、地方の小都市、町村は必要な生活基盤、インフラの維持の危機に瀕しているところもでている。それでもまだ、まだ、ブラウボイレンレベルの人口規模の都市が自立性を持って、都市の活力を維持している。また、機会があれば、ドイツの小さな町ブラウボイレンがどう維持され、どう変化しているのか見てみたいと夢想している。