「ドイツの友人ロルフのこと」顧問大村謙二郎

ドイツの友人ロルフのこと

2021年1月9日
大 村 謙二郎

何ともやるせない、悲しい思いを抑えることが出来ず、この知らせを知ったときはショックですこし立ち直れない状況でした。気持ちを整理するつもりで、個人的なことを書いてしまいます。

毎年、クリスマス時期にドイツの親しい友人たちにクリスマスカードとその年の起こったことを記した手紙を添えて書くのを通例としています。
昨年末も送って、多くの友人からリプライのメールなどが来ていたのですが、45年来の親友から返信が来ないのでどうしたのかなと訝しんでいました。

19日の朝、メールをチェックすると奥さんから、悲しみの知らせという表題のメールです。
親友のロルフ・ラングハマーRolf Langhammerがこの1月3日に、Covid-19で亡くなったという知らせです。突然の知らせに茫然自失の思いとなりました。
奥さんも悲しみと突然のことで、多くは書いておらず、ただ、私たちに健康に気をつけてという短いメッセージでした。

ロルフとはドイツ留学時代の1975年のカールスルーエ大学の都市計画のゼミで一緒になり、共同で作業をした仲です。まだドイツ語がおぼつかない私に対して気長につきあってくれて、お互いに意思疎通、意見交換をすることが出来るようになってきました。
ゼミの課題に取り組んだの私以外3人のドイツ人学生で、それぞれ個性のある学生でしたが、ロルフとはなぜか気があい、当時婚約中だった彼女カリンと私の妻も交えて、親しくしてお互いの家を訪問したり、一緒に食事に行ったりするなど仲良く交際するようになりました。
ロルフのご両親の家に招かれ泊めて頂いたこともありました。ロルフのご両親は旧東独のチューリンゲン州出身の方で、1950年代末に旧東独から一家を連れて着の身着のままで西独に逃げてきて、いろいろ苦労して西独で職を見つけ、地位を築かれたエンジニアでした。ロルフは長男で、弟、妹がいた5人家族でした。当時私たちが住んでいたカールスルーエから車で小一時間ほどのルードヴィヒスハーフェン市のライン川沿いにある市郊外の瀟洒な一戸建ての住宅にお住まいでした。お父さんは大変手先の器用な方で、家の中にあった、家具などは自分で製作していたようで、ロルフも父親の血を引き継いだのか、大変手先が器用で家具や建築をつくる手作業を好んでやっていました。
お互い、ロルフ、ケンとよびあい親しくしていました。彼は1950年生まれで私よりはすこし年下だったのですが、そういったことは関係なく、仲良くつきあっていました。自己主張が強くて強い調子で話すドイツ人やいささか傲慢なドイツ人がいる中で、彼はあまり饒舌でなく、どちらかといえば寡黙で控えめで、でも強い意思と思いやりを持った性格の男でした。真面目一辺倒というわけでなく、結構冗談を言い合う仲でした。
彼はその後、ディプロムアルバイトを終えて、大学を卒業したあと、一時民間企業に勤め、シュトットガルトに住んでいました。はっきりした記憶はないのですが、日本に戻って、私が都市工につとめていたおりに、ドイツに行く機会があり、彼のシュットガルトの家を訪れ、泊めてもらった事もありました。
その後、彼はバーデン・ヴュッテンブルク州の役人となり都市・建築行政の仕事をしていたのですが、ドイツ統一後、旧東独のザクセン・アンハルト州の小さな都市Quedlinburgクヴェトリンブルクの建築・都市計画のトップの役職に応募してそのポストを得てそこに移ることになりました。
日本では自治体の役所内でキャリアアップするのは内部昇進が通例ですが、ドイツの場合は、より上位の役職のポストは公募で、幅広く人材を募集することが通例です。また、ある都市で大きな実績をあげた都市プランナーが、他の都市の都市計画・建築行政のトップに転職することは相当頻繁に行われています。最近日本でも変わりつつあるのかもしれませんが、概してドイツでは専門家の流動性が高いといえると思います。東西ドイツの統一後、東の主要都市の都市・建築行政の職に旧西独の都市プナンナーが応募して、転職していった事例があるようです。ロルフの場合も、ドイツの伝統的な都市プランナーのキャリアアップの事例かも知れません。
クヴェトリンブルクは10世紀に帝国都市として認定されて都市権を持つなど、由緒ある都市で中世の旧い街並み、木組み住宅が残る歴史都市でした。しかし旧東独時代は保全、修復のための投資や市街地整備もされないまま、荒廃した市街地が残ったままだったのです。ここで働き始めたロルフはこの街の歴史遺産、文化遺産を活かした都市再生に懸命の努力をし、1994年末にユネスコの世界遺産都市の認定を受けるようになりました。世界遺産都市の認定を受け、連邦や州政府からも助成金を得ることになり、旧市街地の大半を対象とした再開発、修復、保全の事業が着実に進められることになりました。また、世界遺産都市として認定を受けたことで観光地としての開発、整備も進み国内外からの観光客も増大するようになってきました。
筑波大に私が移ってから、ドイツに調査行く機会が増えて、時間と機会を見つけて、ロルフのところを何回か訪れ、街を案内してもらい、また、世界遺産都市の都市計画的課題についてもいろいろ聞かせてもらいました。
その後、彼は市内にある記念物保護指定を受けている建物を入手し、自分で修復作業を行って、自宅として使っています。彼は職人肌の男で、バーデン・ヴュッテンブルク州の役人時代もバイエルンの農村郊外地域の水車小屋付きの古い農家を取得して、毎年の長い休暇を利用して農家の修復、再生作業に時間をかけて根気強くやっていたそうで、それを完成させ、利用していたのですがクヴェトリンブルクに転居してからこの再生農家も使うことが少なくなって、売りに出したそうです。相当の高値で売却できたとのことです。彼の家を訪れたときに彼が修復再生した農家住宅が紹介された雑誌を見せてくれました。
2001年の夏、大学のサバティカル制度を利用して、3ヶ月近く、ドルトムント大学で研究滞在をしていました。この時、時間を見つけ、女房と一緒にロルフのクヴェトリンブルクを訪れる機会を持ちました。
彼の文化遺産の住居に2泊して、クヴェトリンブルク市内とその周辺を案内してもらい、たいへん楽しい機会を持ちました。これが、私たち夫婦とロルフ夫婦との交流の時を持った最後の時でした。夫婦にはお子さんはいませんでした。奥さんのカリンも小柄だがエネルギッシュな女性で、職業を持ち自立した女性です。彼女も手先が器用で手作りのジャム、ケーキを作るなど料理も上手で、夫婦で楽しく、充実した生活をおくっている様子でした。
その後も、ドイツ調査の時に私ひとりあるいは同僚と一緒に訪れたかと思うのですが、記憶がはっきりしません。ただお互いに近況を詳しく書いた手紙のやりとりをしていて、彼の活動ぶりを知ることが出来ました。世界遺産都市クヴェトリンブルクの都市計画・建築のトップとして多くの実績をあげていたようです。また、趣味をかねてでしょうが、ギリシアの田舎に古い建物を取得して、夏期に休暇を取り、修復作業に取り組んでいることも書いていました。
2012年にリタイアして、自分で再開発等の事務所を開いて、いろいろ都市計画、まちづくりの相談にのっていること、また、市内の由緒ある文化財の教会の整備、維持、管理等ためのNPOの代表として活躍しているとのことでした。
彼はまだまだ、元気に活躍しているものだと信じ切っていたので、彼の突然の死はあまりにも早いし、心に空洞ができたような気がしてなりません。
コロナがこういった身近なところにも悲劇をもたらしているのだと、痛切に感じます。
なかなか、気持ちの整理が出来ないし、彼のことをいろいろ思い出しています。彼ら夫婦も日本の都市、東京に興味を持ち、一度、日本を訪れたいなどと話をしていました。それもかなわないことになってしまいました。

心からロルフの冥福を祈ります。

Quedlinburg市内  2001年撮影