「カールスルーエ市ダマストックでの居住」顧問大村謙二郎

「カールスルーエ市ダマストックでの居住」

2019年3月8日
大 村 謙二郎

ダマストックの写真(大村2015年9月撮影)

<マインツァー通りのシュライヤーさんのお宅>

 1974年の9月下旬、ブラウボイレンのゲーテインスティチュートでの4ヶ月近くのドイツ語研修を終えて、カールスルーエに移動することになった。10月から大学の秋学期が始まるので、その前に各種手続き、受け入れてくれる教授、研究室の人との面談を行うことがまず、やらなければならないことであった。
 また、11月下旬にやってくる妻と生後3ヶ月の娘を迎え入れて、家族3人で暮らす住宅を早く見つける必要があった。
 市内の別の場所にある、大学付属の独立の学術国際課Akademisches Auslandsamtという機関に行って、入学に際しての各種手続き、住宅の相談を行った。家族用の住宅を見つけるまでは大学の建築学部建物近くにある学生寮に2週間ほど滞在場所を見つけることが出来た。個室でベッドと机など、最低限の部屋でシャワー、トイレ、キッチンは共用でドイツ人の学生が大半だった。
 週末だったと思うが、学術国際課でアルバイトをしている学生さんがやってきて、車で候補となる住宅を案内してくれた。最初連れて行ってくれたところは住宅と工場が混合したような地域にある住宅で、あまりイメージもよくなくて断った。
 次の日に、郊外と思われる住宅に案内してもらった。緑豊かな住宅地にある連棟型住宅の2階部分が該当の住宅であった。訪れたときに、1階に住む家主のご夫妻がいて案内してくれた。大変フレンドリーな方で、まわりの環境も素晴らしいように思えて、是非ここを借りて住みたいと申し込んだ。その後の手続きはあまり記憶にないが、奨学金の範囲内でなんとか住むことが出来る、比較的廉価な家賃で借りることが出来た。
 ここが、約2年間住むことになるシュライヤーさん一家の住宅があるダマストックであった。借りることになる住宅では1階に大家さん夫妻が住み、2階の部分が、私たち家族が借りられるように独立した区画となっていた。2階の一角の個室には大家さんの息子、3階のペントハウス部分に娘さんが住んでいた。50年代半ばに開発された住宅地であり、市の南西部に位置しており、歩いて7分ぐらいのところに路面電車の駅Dammerstock駅があった。
 カールスルーへ市内の公共交通機関は路面電車が重要な役割を果たしており,ダマストック駅から5,6分で中央駅に、都心にある大学までも20分足らずで行けた。その後、カールスルーエの路面電車(LRT)のネットワークは拡張、充実され、90年代以降、カールスルーエは路面電車のモデル都市として国際的にも有名になった。
 この住宅地は戦後の混乱を抜け出した50年代の後半に勤労者、中堅層のための住宅供給を図るために、市の中央駅から南西方向に広がる緑地、田園地域を計画的に一体開発した地域である。実は居住することになった住宅地の南側一帯は1928年から,バウハウスの創設者であったヴァルター・グロピウスを責任者として開発が進められたダマストック・ジードルンクが存在していた。これについては機会があれば詳しく紹介したいが、私たちが住むことになった住宅地は、ダマストック・ジードルンクの拡張のエリアとして、バウハウス様式で開発、建設が進められる予定の地域であったのだ。
 住むことになった住宅地は、南北方向に走る生活道路に面して列状の住宅が平行配置される形式の住宅地である。南北軸に二戸一住宅、あるいは三戸一住宅が連続して列状に建設される、いわゆる連棟型の住宅(テラスハウス)が特色で、各住戸の生活道路に面する形で小さな前庭空間を介した形で、玄関が設けられ住宅となっていた。裏側は120平米前後の大きな庭があり、住戸によっては家庭菜園を設けていた。二戸一住宅の間は各住戸のガレージが設けられており、視覚的には数十メートルにわたって、住宅が連続して立地しているように見える。各住戸の敷地間口は12~15メートルほど、奥行きは20メートルで平均敷地規模は250平米を超えていたのではと思う。
 一般にドイツでは最低敷地規模規制が存在しない。ドイツ人の普通の感覚では独立一戸建て住宅であれば最低でも敷地規模は300平米以上が普通であり、500平米、1000平米もそれほど希ではない。要は独立した戸建て住宅にはふさわしい敷地規模の居住形式があり、それを逸脱するようなものは市場性がないということであろう。連棟型、テラスハウス形式の接地型住宅の場合でも平均で200から300平米前後の敷地で、ある程度の庭を持つ住宅が当然と考え方で、敷地規模が小さい接地型住宅はほとんど存在しないといえる。ただし、最近は事情が少しずつ変わってきているようで,旧東独などでは持ち家需要が急速に増大し、ドイツ的基準から見れば相当敷地規模が小さなドイツ版ミニ開発住宅地が出現しているようだが。
 住宅の間取り構成は次のようになっていた。まず、住宅に入る主玄関があり、住宅は1階、2階及び屋根裏に独立の住戸が分かれる形式となっている。したがって、玄関に3箇所の呼び鈴があり訪問客がある場合はそれぞれの階の人に連絡して、玄関を開けてもらう形式となっている。
 大家さん一家の家族構成を紹介しよう。
 ご主人のハインツ・シュライヤーさんは50歳位のドイツ国鉄に勤める事務系の方で、自宅から自転車で行ける距離にドイツ国鉄の職場があった。多趣味の方で、むかし音楽をやっていたようで職場から早く帰ってきたときは家でピアノを弾いていた。
 奥さんのロラさんは40代前半の専業主婦で、料理が得意で、連れあいがやってきてからはケーキやドイツ家庭料理を習うこととなった。家事をてきぱきとこなし、運動もする元気な方であった。お子さんは二人で、上の男の子のベルントは当時、16歳のギムナジウムの生徒だった。下の女の子のカリンは、レアレシューレに通う14歳の生徒で、将来は保母さんになることを目指していたと記憶する。カリンは生まれたての娘の面倒をよく見てくれ、ときにわれわれ夫婦が出かけるときにベビーシッター役をしてくれたこともあった。
 ここで、ドイツの教育システムについてちょっとだけ補足しておこう。現在ではドイツの教育システムは少し変わっているかも知れないが、当時のドイツの教育システムは比較的早い年頃に将来の人生コースを選択するような仕組みとなっていた。日本の小学校にあたるグルンドシューレは4年生まである。この年齢で、子供が自主的に判断して、進路選択をできるとは到底思えないが、親がこの子は高等教育に進ませたいし、それくらいの学力はありそうだと思うときにはギムナジウム(9年生の一貫学校で将来の大学進学を前提)に進学させる。この子は将来事務的な職業分野につく方が良いのでは思うときにはレアレシューレ(実科学校)に、この子は手に職をつけさせ、職人の道を歩ませようという場合にはハウプトシューレ(機関学校)に進路選択をさせるということが行われていた。ドイツの有名なマイスター制度はこういった、教育観の反映でもあろう。当時は大学進学率も低く、親は子供の資質、能力などを見ながら、また、学校の教師と相談しながら、ある種の現実的判断をすることが当然視されていた時代であったのだと思う。今やドイツも高学歴指向が強まり、早い段階から子供に進路選択をさせることの是非が議論されていると思うが。

<ダマストック停留所>

 さて、ベルントの部屋は2階部分にあったが、われわれが借りて住んだ住戸部分とは独立の部屋で扉が設けられていた。一応、私たちの住戸の居間部分と間仕切り壁を隔てて接しているのだが、ベルントの部屋からの生活音はまったくと言っていいほど聞こえなかった。
 カリンの部屋は3階の屋根裏部屋にあった。斜めの天井だが窓もついており、空間としては大きかった。ただ、夏場は結構暑かったのではと思う。
 われわれが約2年間、借りて住むことになった住戸について記しておこう。2階部分住戸に専用の玄関扉があり、独立性のある住戸となっていた。シュライヤーさん一家がここに住宅を持ったとき、2階部分はシュライヤーさんのご両親が住んでいたとのことだ。その後、ご両親が亡くなってからは、この部分を賃貸にしていた。私たちが住む前の2年間はアルゼンチンからの留学生家族(ご夫妻と子ども)が居住していた。シュライヤーさん夫妻は、子持ちの留学生はなかなか、家を借りるのが難しい事情をよく理解して、大学の学術国際課に、子どものいる家族留学生に優先的に貸してよいとの条件をつけていてくれた。そういった点で私たちは大変恵まれた大家さんのところを借りることができて幸運だった。
 また、ドイツで初めて家を借りる段になって知ったのであるが、家具付き住宅という賃貸形式が結構賃貸住宅にはドイツで当たり前の形で流通していた。われわれが借りた住戸にもシュライヤーさんのご両親が使っていたと思われる年代物の家具、ソファーがあり、また、キッチンには冷蔵庫、食器、テーブル、椅子、ベッドルームにはベッド、シーツ、布団が備わっていた。浴室用のタオルなども備わっており、すぐに生活が始められる体制が整っていた。
 住宅の間取りは玄関を入って廊下を挟んで東側に面するとことに浴室、キッチン、ベッドルームがあった。浴室、キッチンがそれぞれ3畳程度で、ベッドルームは10畳くらいの大きさだったろうか。西側はリビングルームで14畳くらいはあったろうか。暖房はリビングルームでガス暖房ができるようになっていた。ベッドルームは暖房がなかったので、これはあとで、ラジエータ式の電気暖房器具を購入した。
 これも新鮮な驚きだったのだが、すべての窓はアルミサッシのペアガラスとなっていた。遮音性、断熱性を考慮したものであろうが、ドイツの住宅では70年代では当たり前となっていた。さすがに寒い国では断熱性が重要な要素なのだ。またベッドルームとリビングの窓はブラインドを内側からの操作で下ろすようにできていた。いずれにせよ、部屋もゆったりで天井高も十分あり、日本のウサギ小屋的な住宅事情に比べて、50年代の住宅とは到底思えず、ドイツの住宅は基本がしっかりしているとの印象を強く持った。
 リビングには机などはなかったので、これについてはゼミで知り合ったドイツ人学生がホームセンターで室内ドア用の板とそれをささえるための本棚をつくる板をカットしてもらえば良いと教えられた。簡単な工作で手製の机一式を安く調達した。普通の机よりはずいぶん大きく、これは大変重宝した。
 また11月下旬に妻と一緒に来る赤ん坊のために、ベビーベッドと乳母車が必要であった。貧乏学生なので、出来る限り安いものを買いたい。これについて、シュライヤーさん夫妻に相談すると、週末の新聞に挟み込まれる別冊の中古の品物情報の広告特集頁があるから、それを見て、該当する品物情報を探索して、連絡・交渉して買えば良いと教えていただいた。土曜日にその特集記事があるページを借りて、ベビーベッド、乳母車の売り情報を見つけて、その連絡電話番号を控えて連絡を取ることにした。この当時、シュライヤーさんの家では電話がなかった。当時のドイツ一般家庭ですべて、電話が普及しているような状況ではなかったようだ。当時の市販の都市図には公衆電話ボックスの位置が地図上に明示されており、重要な都市生活施設のひとつとして認識されていた。情報化という点では日本の方が進んでいた。公衆電話から連絡を取り、何軒かの家に行き、値段の交渉をして、格安でベビーベッドと乳母車をなんとか入手できた。
 妻がやってきて、いろいろなドイツ人のご婦人たちと知り合い関係になる中で、使わなくなった玩具やベビー用品、衣料品なども手に入れることができた。また、月に何回だったか、自分の家庭で不要になった生活用品、家具などを路上に出すことが行われており、それを無料で持っていくシステムがあるのも新鮮な発見であった。
 少しずつ、ドイツでの生活に必要なものを整えて、1ヶ月ほどがたった。11月の下旬、生まれて3ヶ月たてば、首も据わり、海外渡航も可能となるということで、妻が娘とドイツにやってくることになった。貧乏留学生一家で家族の分の渡航費はDAADから給付されないので、妻は格安航空券を探して、フランスパリ経由でカールスルーエに比較的近いシュトットガルト空港に着くルートでやってきた。
 なんとか空港でピックアップしてカールスルーエまで到着して、家族3人の生活をスタートすることになった。ところが、早々に、空港でピックアップしたスーツケースが間違っていて、赤ん坊のための衣料品、おしめなどがないことに気付く。あわてて、空港に連絡して、向こうも間違いに気付いてくれたようで、すぐに鉄道チッキでカールスルーエ駅まで届けてくれる手配が整った。どれくらい時間がかかったのか、記憶がないが、2日くらいは不便をきたしたのではと思う。
 当時は布のおしめが普通で、妻は日本から相当数のおしめをスーツケースに詰め込んできたのだが、この荷物騒ぎで、緊急避難的に紙のおむつを市内で買う経験をした。その後、ドイツ国内を車で移動するときはこの市販おむつにお世話になったが。
到着早々のもう一つの騒動は長旅で疲れが出たのか、生後3ヶ月の娘は発熱し、下痢がひどくなってしまったことだ。どう対応して良いか子育て初心者のわれわれ夫婦にはわからない。シュライヤーさんに聞くと近所に評判の小児科医がいるからといわれ、さっそく早朝に歩いて数分のところにあるドクター・レーヴェ(Dr. Loewe)のところに行った。多分、早朝8時前だったと思うが、結構多くの人が子供を連れて診察を受けに来ていた。待合室は子供向けのインテリアの暖かな雰囲気であった。
 レーヴェさんは50代の恰幅の良い、大柄の人で堂々とした押し出しの人だった。あわてている、ドイツ語がおぼつかない私たち夫婦に対してもゆっくりしたドイツ語でわかりやすく、赤ん坊の状況を説明してくれ、心配することはないと、適切な処方をしてくれた。医学用語もわからず、込み入った話ができない私は、後で思い返してみると、相当プリミティブなドイツ語を使ったと、赤面するような経験であった。後で知ったのだがレーヴェさんは市内でも評判の小児科医であり、さらに、市議会の議員も務めている名士であった。妻はダマストック滞在中、小児健診などで、何度もお世話になったようだが、近くに安心できる小児科医があることは何よりも有難いことであった。
 生活スタート当初のいろいろな混乱、失敗もなんとか克服して、少しずつドイツ生活も落ち着いてはじめることができた。
 2年近く、住むことになったダマストック周辺の四季の移り変わりの生活は思い出すと、たいへん楽しく、充実していたが、当時は初めてのこと、いろいろな出来事の対応に追われて、懸命にすごして、楽しむ余裕はそれほどなかったのかも知れない。つましい、貧乏留学生の生活であったが、充実した生活であった。それを細々、書き出すときりがないので、この住宅地の居住環境や都市計画的意味などについて少しだけ記してこのエッセイを終えよう。
 すでに述べたように、この地区は1920年代末に開発された、住宅団地に隣接する形で1950年代後半に開発された住宅地である。戦後の住宅難を受けて、中堅勤労者のための良好な居住環境を備えた住宅地を提供しようとの、当時のカールスルーエ市の都市計画、住宅政策の意図が反映した住宅地であったと思われる。ドイツでは新規に住宅地開発をする場合には、道路のネットワーク、公園、公共施設、生活施設の立地、住宅敷地のレイアウトなどの詳細な土地・建物利用の計画が策定され、それにあわせて、開発、建設がなされることになる。
 都市計画制度的には1960年に、当時の西ドイツで、連邦統一の連邦建設法Bundesbaugesetzという都市計画の基本法に基づいて市町村の都市計画の仕組みが作られたのが現代のドイツ都市計画の基本となっている。市域全体の今後の土地利用の計画を示すマスタープランとしてのFプランと、このFプランをうけて、今後、新規開発や再開発が進められる予定の地区に、事前に詳細な土地・建物利用の計画を示すBプランとよりなる、FプランとBプランの二層型の都市計画で構成されることになった。しかし、すでに、20世紀前半にはドイツの各地の自治体では都市全体の土地利用計画と地区の詳細な計画で都市計画を進めることが都市計画行政として普及していたし、それぞれの邦・都市ごとに制度が整っていた。
 50年代のダマストックの住宅地開発でも市全体の土地利用計画として、この地区が住宅地開発の適地として選定され、それを受けて、詳細な住宅地開発計画図が策定され、その計画に基づいて開発、建設が進められたと判断して良いだろう。基盤整備と一体となった住宅地であるべきと言うのが、ドイツの都市計画の基本的考え方だ。したがって、ドイツの場合は、郊外の土地を地権者、あるいは開発業者が土地を取得して、任意に基盤整備が不十分なまま開発を進めるといった、スプロール型の開発がまず、起こりえない構造となっている。

<ダマストック・ジードルンクの食堂・レストラン(1930年代建設)>

 ダマストックの住宅地の特色は公共交通とのアクセスの良い、住宅地として開発が進められた点にある。私が住んでいたところは住宅地では北のはずれの場所にあるが、そこから路面電車の停留所駅まで歩いて7,8分の距離であった。停留所駅近くには地区の人向けの食堂・レストラン、食品店、薬局、肉屋、お花屋、信用金庫、クリーニング店などが集まり、小さな生活拠点がつくられていた。また、別のところには幼稚園とそれに隣接したところに郵便局があり、これも徒歩圏内であった。医療施設は先ほど紹介した小児科医、歯科医などが徒歩圏内にあり。また、住宅地の西側にはカールスルーエの南の地域に広がる広大な森林地域、黒い森と呼ばれるシュヴァルツヴァルトに源を持つ、小河川アルプ川が流れており、その両側には散策路と広い緑地が広がり、その一角に子供達が遊べる公園も配置されていた。
 住宅地の配置は南北に走る地先道路に面する形で列状の住宅が配置されるようになっており、主として2層の長屋建て、テラス方式の住宅が作られていたが、角地などは敷地規模が大きく、一戸建ての大きな住宅もつくられていた。住宅の間取りについては、朝はベッドルームに日が差すように東側に面するように、午後から夕方にかけては居間に日が差すように西側に面するような間取りとなる、南北軸の住宅配置が基本であった。これは、この住宅地の南側に広がる、グロピウスが関与したダマストック・ジードルンクと同様の住宅配置形式であり、戦後のドイツの住宅団地の配置は20年代のバウハウスが提唱した平行配置、均等日照の考え方がある時期まで主流であった。日本の南面住宅が主流の配置形式とは異なっていた。また、住宅地の縁辺部には4層の賃貸集合住宅が何棟か建設されていた。この住棟は南面配置であった。
 私たちが住んだダマストックの住宅地は、中堅勤労者を対象とした住宅地であったがそこに居住する階層の幅は相当広かったのではないかと思う。富裕層対象の邸宅街とは違う、健全な中間層の住宅地形成が50年代、60年代の西ドイツ各都市で目指されていた。
 交通環境、道路の特徴を述べておこう。住宅地区の東側に南北方向に走る主要幹線道路があり、この幹線道路に沿って路面電車が走っていた。路面電車で2駅乗れば、中央駅に行け、また、15分から20分程度で都心中心商業街に行くことが来た。都心に近接したところに大学キャンパスがあったので、大学までも路面電車で30分足らずで到達できた。路面電車は比較的広域まで路線が延長されており、シュヴァルツヴァルトの北端の近郊保養地のヘレンアルプまで通じていた。ヘレンアルプまでは車でも20分程度で到達できて、われわれ家族は何度となくここを訪れ、散策、ピクニックを楽しんだ。
 南北に走る主要幹線を介して、アウトバーンの出入り口まで10分で到達でき、広域に出かけるときはアウトバーンを利用して、ドイツ各都市、スイス、フランスアルザス地方にも出かけることができた。
 この南北主要幹線から分岐する形で東西方向に地区間を結ぶ地区幹線が東西に走っており、この幹線と路面電車駅との結節点を中心に店舗、生活施設が地区幹線沿いに配置される構造となっていた。地区幹線にはバス路線が通っていた。
 この地区幹線から、住宅地に入る集散街路といえる補助幹線が分岐し、さらに各住宅地に通る住宅路、地先道路が配置される道路の段階構成にしたがった道路ネットワークが形成されていた。住宅に面する道路には不要な通過交通が入り込まない、道路ネットワークとなっていた。住宅に面する道路ネットワークの最終段階となる住宅路でも車道部分が6-7メートル、両側に1.2メートルの歩道の断面構成で、で幅員10メートル前後の道路空間が確保されていた。シュライヤーさんは専用のガレージに車を駐車していたが、私は家の前の歩道に片側を乗り上げる形で、駐車をしていて、特に問題はなかった。
 まさに、1920年代にアメリカのペリーが提唱し、その後各国の都市計画、住宅地計画に多大な影響を与えた近隣住区の原則に基づいた、住宅地が計画に従い開発されていた。
住宅地は高密度でもなく、そうかといっても低密度でもなく適度な密度で、良好な居住環境が維持、形成されていたといえよう。
 近年、路面電車の駅を中心にコンパクトな市街地をつくる、コンパクト&ネットワークと言う言葉がわが国では盛んに言われるが、ダマストックのこの住宅地はその言葉がない時代から、すでにこの考えを実現していたともいえそうだ。

 2015年9月、センチメンタルジャーニーと称して、妻とドイツ各地の知人、友人を訪ねる旅を行った。カールスルーエでも当然、シュライヤーさんのお宅に訪れることにした。実は、その数年前に、ご主人のハインツさんはお亡くなりになり、奥さんがお一人でお住まいであった。お宅を訪れ、その後、ロラさんと一緒に路面電車で2駅ほど南下したところにある、市営の墓地にお墓参りをした。公園墓地といってよいほど緑豊かな墓地で、きれいに管理されていた。
 奥さんは80代後半だったがお元気でスポーツジムに通って体操やヨガを行い、自転車に乗って、あたりを散策するなどしっかり自立した生活をおくっておられた。
 ダマストックの住宅地は住民の入れ替わりや高齢化が着実に進行したと思うが、40年前と同じ家並み、佇まいで当時あった、食堂・レストランも変わらず存在していた。日本の住宅地での建て替え更新の速さ、短期間での変貌と比較して、ダマストックの普通の住宅地が変わらず、豊かな環境を維持している様子を見ると、生活の豊かさ、ゆとりとは何だろうかと、あらためて考えさせられる。

<シュライヤーさんが眠るカールスルーエ市の都市墓地>