「オーウェル評論集」弁護士小澤英明

オーウェル評論集(2022年4月)

2022年4月4日
小  澤   英  明

 ジョージ・オーウェル(1903年−1950年)はイギリスの評論家・小説家である。昨年、書店で「オーウェル評論集」(岩波文庫)を立ち読みして、あるところで目が釘付けになった。「書評―アドルフ・ヒットラー著『わが闘争』」(1940年)の評論中に、「前大戦以来、ほとんどの西欧思想、というより『進歩的』思想に至ってはそのすべてが、人間は安楽と安全と苦難をのがれる以上のことは望まないと、暗黙のうちに決めてかかっている。こういう人生観には、たとえば愛国心とか武勲といった思想の存在する余地はない。」とあった。その通りである。今回のウクライナ侵攻に対するウクライナ国民の抵抗と勇敢さを見て、この一節を思い出した。 ―なぜ降伏しないのか?― 今のウクライナ国民には、この質問は愚問だろう。
 このオーウェルの評論集を読んだとき、オーウェルの尋常ではない正直さに脱帽する思いがした。初めの方に、「絞首刑」(1931年)と「象を撃つ」(1936年)という短編評論が二つ載せられている。死刑反対、動物愛護という、聞こえの良いスローガンを打ちのめすような人間の残忍さを意識させる2篇である。そこに書かれているものは、人間の本性を描くという観点ではこれ以上のものはないくらいの内容で、こんなに本当のことを書いて無事で済んだのかと心配になるほどである。人間の本性を見る目があるから、社会主義の将来も見抜くことができたわけである。このような冷静な観察眼で見られたら、日本のマスコミの多くは裸を見られるような気持ちになるだろう。
 実は、私は司法修生時代、死刑廃止論者で、いつの間にか宗旨替えをしてしまっている。なぜ、死刑廃止論者だったかというと、当時好きだった遠藤周作の影響があったと思うが、なぜあそこまで死刑反対と思い詰めていたのか自分でもわからない。あさま山荘事件の被告人の多くが死刑宣告を受けたなかで、被告人吉野雅邦に対しては、1979年3月29日、検察の死刑求刑に対して東京地裁の無期懲役の判決が出た。その頃、私は、検察実務修習中だった。その講義の中で、修習担当をされていたA検察官から、その判決についてどう思うか、聞かれたことがある。私が名指しでということではなく、修習生何人かが感想を聞かれたということだったと思う。A検察官は、温厚だが正義感の強い方で、地裁判決におおいに不服であったと思う。私は、その質問に対して、「死刑にならなくてよかったと思います。私は死刑廃止論者ですから。」みたいな、空気の読めない発言をした。その時点で弁護士になることを決めていたので、特段、覚悟して発言したつもりもなかったが、死刑廃止論者でもあったことが任官を志望しなかった理由でもあった。今でもそうだと思うが、民事裁判官か刑事裁判官かは選べなかったからである。その発言で、教官方から目をつけられたはずだが、修習中、終始どの教官にも親切にしていただいた。
 その頃(23歳)に比べて、今の自分(66歳)の方が優れているとも思わないが、人間には許せない悪事には復讐の気持ちが自然と芽生えるのである。これをむやみに否定することは人間の本性に対する誠実な向き合い方ではないと今は思っている。