「建築家の年輪(真壁智治編著)」から(2019年5月)
2019年5月30日
小 澤 英 明
「『建築家は五十歳から』という村野藤吾のことばがある。」で始まるこの本は、1940年以前に生まれた著名な建築家20人に真壁氏が2013年から1年半かけてインタビューした内容が収録されている。いずれも名を成した建築家だけあり、どれも興味深い。聞き手の真壁氏がまたすばらしい。ここでは、池田武邦と内田祥哉の二人のことを少し書きたい。
池田武邦は、日本設計の創立者である。山下設計から仲間を引き連れて独立し、日本設計を創設し、育てた。山下設計時代に霞が関ビルの建設を主導した。超高層建物の草分けの一人である。日本設計の初期にオイルショックに会い、仕事がばったり来なくなった頃に、当時の日本設計の最高傑作だった新宿三井ビルに高家賃でも引っ越したエピソードがある。設計事務所は頭脳集団だから、頭脳がいい、センスがいいということは作品で示すしかないと、反対する周囲を説き伏せて引っ越したそうだ。池田はその後ハウステンボスの開発も主導した。相当なリーダーシップがないとできないことである。この本にはないが、池田は建築家賠償責任保険の創設にも尽力したことで知られている。新潟地震の惨状を見て霞が関ビルの設計が途中で急遽大きく変更されたことから、未知の分野が多くあることを自覚したとのエピソードもいい。そのうえで、人間誰しもミスがあるという事実に目をそむけず、建築家の免責ではなく、建築家の責任に正面から取り組んだ。尊敬すべき人だと思う。
内田祥哉(よしちか)は、内田祥三(よしかず)の次男であり、子供に内田祥士(よしお)がいる。名前の読みで一苦労だが、連綿と良い建築家の遺伝子が受け継がれているように思う。内田祥三は有名なので、紹介する必要もないが、東大の多くの建築物の設計を行った。祥哉が立派なのは、池田とはまた別の意味で建築家の責任を自覚して長年活動してきたところである。社会に良い建築物を多く供給することを追求し、今は、設備の更新や改修という視点で建築の在り方を追求しており、それぞれの活動をそれぞれの時期になぜ行ったのかがよく理解できる。建築家又は建築の評論家と呼ばれる人の中には、人を驚かせるような言葉で周りをけむに巻く人がいる。そのような人々とは対照的な人である。近著に「ディテールで語る建築」がある。率直な語り口である。子供の祥士は、最近「営繕論 希望の建設・地獄の営繕」を著したが、これも建築に今何が求められているのかを示す好著である。
池田も内田も80歳を超えても活躍しており、しかも、生き方がいさぎよい。池田を見ると、責任逃れに汲々とする人々が見苦しい。内田を見ると、将来を十分に考えないままマンションが建てつづけられている現状を反省させられる。区分所有のもとで、今後、マンションの設備の更新や改修をどのように進めるかは、建築家の責任というよりも、また、企業の責任というよりも、法律家の制度設計の責任の方が大きいように思う。
10連休で、佐世保市の実家に帰省したが、内田の作品の多くがある有田町(佐世保市の隣町)では陶器市が開催されていた。佐世保市では、父の母方の墓のある早岐(はいき)に行った。早岐の海は初夏の陽光に輝いていた。その先の海が池田の愛した大村湾である。墓参りのあと、九十九島(くじゅうくしま)まで足を延ばした。
九十九島の5月