鹿児島ラ・サール中1B(1968年のクラス写真)(2024年2月)
2024年2月29日
小 澤 英 明
ラ・サール中学からの友人たちと2,3か月に1度くらいの割合でZOOM飲み会をやっている。メンバーは7人。この7人の間ではメール交換も頻繁に行っている。そのうちの一人のM君が、こんなのが見つかったとラ・サール中学1年Bクラスのおそらく2学期のクラス写真を送ってきた。全部で生徒は55人である。このうち、M君のほか、K君、N君と私が、その7人のメンバーの中に入っているので、この4人は、12歳から今まで密につきあっていることになる。55年の間、よくも続いていると思う。中学は1学年3クラスで150名と記憶していたが、それよりも少し多く入学させていたことがわかる。この55人のうち、名前がまったく思い出せないのは2人、少し記憶に自信がないのが1人。高3までほぼ一緒なので(途中で転校する人がいるけれど)、名前をほとんど覚えていても不思議はないのである。このうち、医者になった者が19人。3分の1ということになる。東大に進んだ者が13人(うち2人は医者でもある)。少し不正確かもしれない。この写真を見てわかるのは、中学1年生のことだから、ほぼ前列に座らされている小学生のように見える生徒と、最後列に立っている高校生みたいな生徒との差が大きいことである。私は、2月生まれであることも手伝って、最前列の担任の樺山先生(英語)の隣(向かって左)に座っている。のちのメタボを想像できない。
この樺山先生は、ステッキのようなもの(細い棒状のもの)をもって授業をされ、質問の答えを間違えた生徒を、時に、教室の前の方まで出させて、お尻の少し下を軽くそれでひっぱたく(!?)という指導方法であった。たたかれると痛いので逃げ回るX君の様子は今でも思い出すとおかしい。いくら教室内を逃げ回っても、愛の一振りが結局はおろされるのだった。X君もその後東大に合格したのだから、この教育方法も効果はあったようである。今では新聞沙汰になりかねないし、ありえない指導方法だが、55年前の当時も、ご父母から、あれはやめてほしいと苦情があったようだった。もっとも、樺山先生の名誉のために書いておくと、愛情を持った教育だったので、樺山先生を嫌いな生徒はいなかったと思う。
先日、ラ・サールの先輩の公認会計士のT先生と仕事で兵庫県までご一緒し、帰りは、新幹線の隣同士の座席で、ラ・サール時代の思い出を話しあった。T先生は私の3年先輩で、在学中は接触の機会はなかったが、ともに教えていただいた共通の先生もいることから話がつきなかった。そのうち、寮の舎監だったカナダ人ブラザーのZ先生のことに話が及んだ。Z先生はモントリオール大出身のアイスホッケーが上手なスポーツマンで(写真を見たことがある)、モテ男の素質は十分にあったと思えるのだが、なぜ、カナダから日本の最南端の鹿児島にブラザーとなって来られたのか私には不思議だった。そこで、そのことをT先生に聞いてみた。すると、「ブラザーやシスターは良家の子女が多いんですよ。家はお金持ち。ラ・サールのあのプール(レーンが斜めに交差したお洒落なかたちだった)も、そんな人たちの寄付からできたんじゃなかったかな。」とのことだった。「そうか。純粋に神を信じる気持ちからなんですね。」と言うと、T先生は「そう。」と言って深くうなずいた。