高浜虚子の小説「虹」 (2025年12月)
2025年12月1日
小 澤 英 明
先日、日比谷のジュンク堂の文庫本コーナーを眺めていたら、江藤淳(1932-1999)の「なつかしい本の話」(ちくま文庫)が目に入った。ページをめくると、「伊東静雄『反響』」という一編がある。さっそく購入して、自宅で読み始めると、この江藤の本がなかなか良い。伊東静雄の詩に出会わなかったら文学を仕事としなかったかもしれないと書かれている。ところで、この本には高浜虚子(1874-1959)の小説を紹介した一編があり、これがとりわけ良い。虚子の小説は、江藤の義理のお祖父さんにあたる日能英三氏(青山学院専門部で長年英語を教えていた)の机の横にあったらしい。この一編では、日能氏が魅力的に描かれているのだが、ここでは省略する。そこで紹介されている高浜虚子(1874-1959)の小説「風流懴法」(1921年の作)の中の会話が妙に人を惹きつけるものであり、虚子は小説も書いていたのだと知って興味をもった。
筑摩書房の「現代日本文学体系」に「高浜虚子 河東碧梧桐 集」という一巻があり、自宅にあったので、この本を開いてみる。すると、その大部分は虚子の小説である。虚子が小説家としてここまで評価されているとは知らなかった。その中に、虚子自身の体験を小説にした愛子もの4部作がある。その第一作が「虹」という作品(1947年の作)。1時間もあれば、味わって読めるほど短い。名作である。事実通り客観的に書かれたものらしい。愛子とは福井県三国町の富豪と三国の名妓との間の娘で、結核のため藤沢の鵠沼に母と転居し、鎌倉市の病院に通院していた。そこで長期療養していた伊藤柏翠(1911-1999)から俳句を勧められ、柏翠の俳句の師の虚子(鎌倉居住)に出会う。戦争が進むにつれて、食糧事情が悪くなり、母と郷里の三国町に戻る。柏翠は愛子に惹かれて何度も三国を訪ねるようになる。
ところで、偶然にも、私は先月のはじめに福井に旅行し、芦原(あわら)温泉に泊まった。翌朝東尋坊を訪ね、昼頃に三国の街を散策したばかりだった。江藤の本との出会いは、その後である。「虹」の冒頭に「三国」とあり、ひょっとして、と思って読み進むと、まさに福井の三国である。また、「虹」の中で、愛子の父が銀行の頭取だったとあったので、ひょっとすると「森田銀行」?と思って調べるとまさにそのとおり。つい2週間ほど前に、旧森田銀行本店の建物の中に入って、その歴史を知った。その森田家の当主と名妓との間でできた娘が愛子(森田愛子:1917-1947)だったのである。三国は、明治時代に入る頃まで北前船の寄港地として隆盛を極め、二大豪商の内田家と森田家の運命の分かれを現地の方から聞いたばかりであった。内田家は三国港の再興を願って奮闘したが、鉄道輸送時代の流れに逆らえず没落した。一方、森田家は新しい時代の波に乗って銀行業を始めて栄えた。つまり、森田家は勝組。その当主の子が愛子。ただ、経済的には恵まれた生活を送りながらも、側室の子という事情がある。また、結核療養中。愛子の女学校の学籍簿の記載がWikipediaにでてくるが、これ以上の褒め言葉はないという言葉の羅列。よほど先生方に気に入られていたのだ。ネットで美しい愛子の写真も見られる。虚子が心を動かされるはずである。
「虹」の中では印象的なシーンがいくつかある。まず、冒頭に福井から敦賀に向かう列車で見た虹が出てくる。「あの虹の橋を渡って鎌倉へ行くことにしませう。今度虹がたった時に・・・」との愛子の言葉がある。また、 虚子が柏翠から愛子との結婚を相談され、二人とも病気だから慎重にした方がよいと答えたこと、虚子がそういう答えをしたことを残酷であり申し訳ないと思ったことが書かれている。山中温泉に虚子を慕う俳句同好の士が集まり、酒食の宴に移り、その終わり頃、愛子の母親の見事な踊りが披露され、愛子の踊りが続く。そこで虚子が咽び泣いたことが書かれている。さらに、虚子の娘の立子と愛子と愛子より年上の俳句仲間の美佐尾が一緒に温泉に入ったこと、浴室で愛子が美佐尾に甘えたことを立子から聞いたことなど。いずれも当時愛子が置かれていた状況を思うと、哀しく美しいシーンばかりである。「虹」の最後に、虚子が後日愛子に送った俳句三句がのせられている。そのうちの二句。「虹たちて忽ち君の在る如し/ 虹消えて忽ち君の無き如し」
写真は、三国に現存している旧森田銀行本店の建物(1920年竣工)。山田七五郎(1871-1945:旧長崎県庁建物や横浜市開港記念館などの名建築で知られる)の設計で登録文化財。漆喰の天井が見事である。愛子が今の時代に生を受けていたならば、結核など直ちに治っただろうし、頭脳明晰なだけでなく、学籍簿によると、温順で責任感が強く奉仕心に富む性格なのだから、どの職業でも大成功したことだろう。愛子ものの第二作以降はなかなか読み進められない。第三作の中に愛子が死の間際に虚子に打った電報がある。「ニジ キエテスデ ニナケレド アルゴ トシ アイコ」
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