顧問早水輝好「続・私が住んだところ(その5)-杉並区松ノ木、 阿佐ヶ谷-」

コラム第35回

続・私が住んだところ(その5)-杉並区松ノ木、阿佐ヶ谷-

2025年9月16日
早 水 輝 好

 もうすぐお彼岸だというのに、猛暑がまだ続いている。私はお盆の前後から体調を崩してしまい、家内から「暑いのに予定を入れすぎなのよ」と怒られた。後半の予定をいくつかキャンセルして、医者で処方された薬を飲みながら休養に努めたらようやく回復してきた。日本ではこれからは暑さに順応できないと長生きできないようだ。来年はもっと慎重に夏の予定をたてなくてはいけない。

  さて、「私が住んだところ」のコラムも終わりに近づいてきた。今回は、1997年にフランスから帰国して今の三鷹に落ち着くまで住んでいた「杉並区松ノ木」近辺をご紹介する。

 帰国が近づいて、官舎の希望を出し、できれば家内の実家に近い「山手線の西側」を希望したら2か所出てきて、選んだのが杉並区松ノ木の「松の木住宅」だった(なぜか地名がカタカナなのに住宅名はひらがな)。最寄り駅は地下鉄丸ノ内線の新高円寺駅で、環境省まで乗り換えなしで行け、また海外赴任前に田柄住宅(第28回コラム参照)で一緒だったご一家(子供たちも同学年)がこちらに転居されていたのも心強かった。広さは50m3程度の3DKで、フランスのアパートの半分のサイズだが、田柄住宅に比べればはるかに広く、相部屋だが子供部屋もとれるので、断る理由はなかった。ただ、またしても築30年近くという古さであり、玄関を入るといきなりガラス戸があったのにはびっくりした。すぐに外して食器戸棚の後ろに隠し、アコーディオンカーテンに取り換えた(退去時に元に戻した)。

 官舎は青梅街道にある新高円寺駅から南に15分ほど歩いた住宅地にあり、5階建て6棟、全部で200戸弱の規模だったと記憶している。ここは田柄住宅と違って、子供の年齢層も幅広い感じだった。
官舎の周りは完全に住宅街で、スーパーに行くにも少し歩く必要があったが、そのかわり静かな街だった。少し南に行くと善福寺川が流れていて、善福寺川緑地や和田堀公園(地下貯水池がある防災公園)があり、さらにその南には鎮守の森に囲まれた由緒正しい大宮八幡宮があった。そのためか、官舎では蛇の目撃談がときどき聞かれた。私は見たことがなかったが、家内は階段を上ったり草むらを這っていたりする姿を見たことがあったようで、他にも家に帰ってきたら部屋の中に鎮座していたとか、電線を渡っていたとかいう話を聞いた。蛇は人に悪さをするわけではないのだが、人にとっても蛇にとっても鉢合わせは気持ちのよいものではなかっただろう。
 和田堀公園の南には公営のプールがあり、夏休みに子供を連れていって自分も泳いだりした。また、初詣は大宮八幡宮で決まりだったが、少し東にある厄除けの妙法寺にもたまに出かけた。

 とにかく人がたくさん住んでいる、という印象の街だった。仕事柄、終電近くの電車で帰ることが多かったが、一つ手前の東高円寺駅と新高円寺駅でどっと人が降り、しかも半分ぐらいは女性だった。人口の半分は女性なのだから今から思うと当たり前なのかもしれないが、当時は今ほど「男女雇用機会均等」が進んでいたわけではなく、男性と同様に夜遅くまで働く女性はそれほど多くないと思っていたので、どういうところに勤めていてどうしてこんなに遅くまで働いているのか、調査してみたい気分になった。

 日常的な買い物は新高円寺駅の近くや阿佐ヶ谷駅に行く途中にあるスーパーや生協に行っていたが、いろいろなお店があるのは中央線の高円寺駅前と阿佐ヶ谷駅前の商店街だった。中央線の駅前商店街は駅ごとに特徴があり、高円寺駅前にはやや怪しいお店もあったが、阿佐ヶ谷駅前は健全そのもので、若干近かったこともあって週末には時々阿佐ヶ谷方面に自転車で繰り出した。古いアーケード街の「パールセンター」「すずらん通り」といった商店街が青梅街道から阿佐ヶ谷駅までつながっていて、活気があった。ごちゃごちゃした雑貨屋さん、なぜか破格の値段で下着や普段着を売っている店など、こういう古い商店街にしかなさそうなお店の連続だった。作家のねじめ正一さんに関係があるらしい「ねじめ」という和風小物店もあった。
 夏の行事は、高円寺は阿波踊りが、阿佐ヶ谷は七夕まつりが「売り」で、今回コラム用の写真を撮りに久しぶりに阿佐ヶ谷の七夕まつりに行ったら、外国人もいたがむしろ若い人や家族連れで大混雑。アーケードから色とりどりの飾りや手作りの「張りぼて」がつるされ、「〇〇賞」と表彰されたものもあって、昔と変わらない風景だった。

 阿佐ヶ谷で思い出すのは、子供の塾の送り迎えである。子供たち二人が続けて中学受験期になり、受験はさせたいが夕食時間を超えて子供を拘束する大手塾には行かせたくない家内が見つけてきた小さい塾が阿佐ヶ谷駅前にあり、水・土の週2日通わせていたので、土曜日の送り迎えは私の役目だった(車がない我が家では自転車で伴走するだけだが)。
 駅前の塾のビルの1階には昔ながらの喫茶店があり、迎えに行くときは塾が終わる少し前からそこでコーヒーを飲みながら待っていると、子供が降りてきて顔を出し、一緒に帰ることにしていた。私の到着が遅れてコーヒーを飲み終わらないうちに子供が降りてきたときは、ココアを飲ませてから帰ることもあった。
 予想されたことではあるが、先日写真を撮りに行った時には、(塾がすでに引っ越していたことは知っていたが)喫茶店の影も形もなかった。名前も覚えていないお店だったが、もはやあの手の喫茶店は絶滅危惧種なんだろうなと思いながら、昔をなつかしく思った。

 松ノ木に住んだのは約5年7か月。古い官舎で最初から天井にひびが入っていて、それが次第に裂け目になってだんだん大きくなっていった。管理人さんに言ったら、「あら、こんなの初めて見たわ」ということですぐに張り替えが行われた。さすがにやや恐怖心を覚え、子供が大きくなったこともあって、引っ越しを考えた。不動産屋の紹介でいくつか物件を見て回り、家内の実家に近く子供の通学にも便利そうな三鷹に家を建てることになって、長男が高校進学、次男が中学入学のタイミングで2003年3月に引っ越した。
 今回の引っ越しは一戸建てに移るという「わくわく感」もあり、田柄住宅から官舎の人たちに送り出された涙ながらの引っ越しに比べれば淡々としたものだった。それでも、フランスから帰国した我が家を支えてくれた住宅に感謝しながらの引っ越しだったことを覚えている。

 思えば、岐阜の実家に18年いた後、1977年に上京してから数年ごとに引っ越し、2003年に三鷹に落ち着くまで、約26年間に7か所に住んだことになる。その間に結婚して、家族も増え、子供たちも成長した。引っ越しのたびに戸惑いながら、新しい発見もしながらの生活だった。今回の連続コラムを書きながら、いろいろなシーンが思い出された。
 松ノ木の後は三鷹に落ち着き、コラム第3回に戻るわけだが、せっかくなので「私が住んだところ」のコラムの最終回は、「私が住んでいるところ」三鷹近辺をもう一度ご紹介してみたいと考えている。あと1回、お付き合いください。

阿佐ヶ谷の七夕まつりの様子(2025年8月11日)

(追伸)この週末にカーリング日本代表決定戦が行われ、女子は2連敗スタートの崖っぷちから盛り返したフォルティウスが、最終戦最終エンド最後の一投をスキップの吉村紗也香選手が見事に決めて勝利し、12月の五輪最終予選への出場権を得た。吉村選手にとってはオリンピック出場への5度目の挑戦。頑張って下さい!