「ヘルマン・ヘッセのエッセイ」(2024年9月)
2024年9月24日
小 澤 英 明
9月中旬、新しい仏壇が家に搬入された。8月にいくつもの仏壇店を見て回り、いくつものネット広告を見て、どれを選択したらいいかわからなくなった。最後は百貨店に入っている老舗店のやり手の店員さん(女性)のお勧めに従って買っただけなのであまりほめられた買い方でもない。9月21日からの三連休は、はじめてのお彼岸で、おはぎとお茶は供えなければなるまいと思って、池袋でおはぎを購入し、熱いお茶を入れた。この夏、あまりにも暑く、ホットコーヒーも熱いお茶もこのところ飲んでなかったが、お彼岸を迎えて外気温も下がってきて、ちょうど私自身が熱いお茶を飲みたくなっていたので好都合だった。両親は熱いお茶を好んでいたので、お茶をお供えして、喜んでくれたかなと、少し親孝行した気分を味わった。
お彼岸の三連休は、久しぶりに完全休養で、何にもとらわれずに身体を休めることができた。9月21日に池袋ジュンク堂でいくつか本を購入した。久しぶりにドイツ文学のコーナーに向かった。実は、ハンス・カロッサ(1878-1956)の「美しき惑いの年」がないかなと思って探したのだが、カロッサの本は、文庫コーナーに岩波文庫の「幼年時代」が一冊あるだけで、ドイツ文学のコーナーには何もなかった。カロッサは、東大駒場時代に今年亡くなった担任のドイツ語の平尾浩三先生が教材に使われたのだが、今回「美しき惑いの年」を読みたくなったのは、この本がカロッサが63歳になって若い頃のことを回想した書なので、本業の医者を忙しくつとめながら文筆活動をしていたカロッサが老年に入ってどのように若い頃を回想しているか興味があったからである。
ドイツ文学のコーナーにカロッサの本はなかったが、ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)の本はいくつか並んでいた。高校生の頃に「車輪の下」などいくつか読んでいる。その後は、10年頃前に「庭仕事の愉しみ」(訳者の岡田朝雄先生は知る人ぞ知る昆虫に詳しいドイツ文学者である。草思社)を購入したことがあった。本の中の写真を見て、こんな景色のいいところで庭仕事を楽しみに過ごすのは老年のひとつの理想だなとも思ったことがあった。ドイツ文学コーナーに並んでいた本の中から、ヘッセの「エッセイ全集」(臨川書店)の第5巻を買った。自宅に帰って、縁側の安楽椅子にくつろいで、読むとこれがなかなかいい。仕事では、いつもどれだけ速く多くの文書を読んで要点をつかめるか、ということばかりに精を出しているので、興味のある文章をゆっくり拾い読みできるということ自体、幸せな気分になる。
その第5巻の中に「古い音楽」(島途健一訳)というエッセイが入っている。これは、雨の日の夕方、自宅から音楽会が開かれる大聖堂までの道のりの様子、大聖堂に入って音楽が始まるのを待つまでの様子、大聖堂で演奏されてゆく音楽から受ける感銘、音楽会が終わった後の様子が順に書き込まれているもので、興味深かった。演奏曲目は、バッハの「前奏曲とフーガ」以外不明なのだが、フランスの死んだ巨匠のオルガン曲があったらしい(となると、セザール・フランクかなと勝手に想像する)。また、古いイタリアのヴァイオリン・ソナタも演奏されたようで、おそらくヴェラチーニかナルディーニかタルティーニのどれかだと書かれている。どうして、このエッセイが興味深かったのかというと、最近YouTubeでバッハの音楽がしばしば教会の中で演奏されるのを見ることができるからである。ああ、ヨーロッパでは、音楽を聞きに教会に集まることがあるんだな、と改めて知らされた。そのため、そこに集まる人々がどのような気持ちで集まり、そこでどのようなことを感じるか、などということに漠然と興味を覚えていたが、ヘッセのこのエッセイからその詳細を教えてもらえたような気がした。
この第5巻には、多くの旅行のエッセイが含まれており、ヨーロッパの地理に詳しい人には楽しめそうなものが多い。その中で異色のエッセイが「ワインの研究」(山本洋一訳)である。これは、ヘッセがワインの醸造の研究に熱をあげていた化学工場の技師であった友人とワインの研究を行い、その成果を出版して、おそらくは一山当てようとしたが、見事に当てが外れて、その事業から撤退したいきさつが書かれている。ヘッセも自分をすべてさらけ出してはいないので詳細はわからないが、ひどい目にあったなあ、という気持ちは伝わってきて、ヘッセにもあった俗人的なところに触れられる貴重なエッセイになっている。