コラム第28回
続・私が住んだところ - 練馬区田柄
2024年4月30日
早 水 輝 好
このコラムの第1回は今から4年前の2020年4月、故郷岐阜の話からスタートした。大学進学時に上京して住んだ学芸大学駅近くの目黒の話が第2回、今住んでいる三鷹の話が第3回だったが、学芸大学と三鷹の間の約18年間は、若手・中堅官僚として仕事も多忙な一方で、私生活も結婚、子育て、海外赴任と大変な、でも人生の中で重要な時期であり、この間に住んだ街や生活の中にもいろいろな思い出がある。そんな18年間を、住んだ場所ごとにたどっていくので、おつきあいいただきたい。
環境庁に入って満2年になろうとしている1985年2月、私は結婚した。結婚したら公務員宿舎を斡旋してもらえるのだが、公務員宿舎には省庁ごとに割り当てがあり、環境庁は総理府の中の後発の役所なので遠いところしかないと聞いていた。このため、民間のアパートを借りようと思っていたところ、部の筆頭課長が宿舎を管理する大蔵省からの出向者で、大蔵省の枠を回してもらえることになった。「狭くても近い方がよいか、遠くても広い方がよいか」と聞かれて、「狭くても近い方がいいです」と答え、斡旋されたのが練馬区にある「田柄住宅」だった。4階建て16戸の建物が4棟並ぶ、小ぶりな団地だった。
最寄り駅は営団地下鉄有楽町線の営団赤塚駅(現在の東京メトロ・地下鉄赤塚駅)で、桜田門駅まで1本で通勤時間は50分程度と、通勤に便利な住宅だった。東武東上線の下赤塚駅にも近く、お店もスーパーもあって生活に不自由はなかった。(隣の板橋区の徒歩圏内のお寺に「東京大仏」があるというのも初めて知り、行ってみたら冒険家・植村直己のお墓もあった。)
公務員宿舎は家賃が安くてお得な場所として批判的報道がなされたことがある。田柄住宅も確かに家賃は激安だったが、昭和36年建築で当時築24年、広さは34 ㎡で2K(6畳、4畳半に3畳程度の台所)という物件だった。家内は最初にここを見た時、あまりの見た目の古さに絶句したという。
外観だけでなく中身の古さも相当だった。風呂釜は手回しで着火するタイプでシャワーはなく、室内の風呂釜から煙突が外に出ていて、その横は穴があいた「換気窓」になっていた。冬は冷たい外気が容赦なく入ってくるので、段ボールで作った窓ふさぎを充てていた。台所に換気扇はなく、ガス会社に窓の一部につけてもらった。
ただ、「東京オリンピックの前に建った物件だから丈夫にできている」という評判どおり、壁や床が厚くできていたらしく、隣りの声も、上の階の子供のドタバタもあまり気にならなかった。道路沿いと宿舎内の公園には桜が植わっていて、公園は「桜公園」と呼ばれていた。おそらく宿舎を建てた時に植えたのだろう。桜は立派に育っており、どこにも行かずに花見が楽しめた。
公務員宿舎には特定の省庁の人だけが住む専用宿舎と、いろいろな省庁の人が住む合同宿舎とがある。前者は職場での上下関係が宿舎にも持ち込まれる傾向があって奥様方には不評という話を聞いていたが、幸い田柄住宅は後者だったので、その点は気楽だった。この広さ(狭さ)の住宅を斡旋されるのはたいてい若い夫婦であり、小さい子供がいる家庭も多かった。中には子供が3人という家族もあり、いったいどんなふうに住んでいるのだろうと不思議だった。
我が家も引っ越し後2年余りで長男が生まれ、さらに3年後に次男が生まれて、4人家族になった。同じ宿舎で年齢の近い子供も多く、また当時は共働きよりも専業主婦が圧倒的に多かったので、宿舎の間の空きスペースや桜公園で、母親たちの監視のもと子供たちが遊んでいた。さながら団地内の保育園のようだった。
宿舎を少し西側に行くと、米軍の住宅が返還されて整備された光が丘公園があった。当時はまだ整備中のところもあったが、とにかく広大な公園で、子供たちを自由に遊ばせることができた。
公園の一角には弓道場があり、偶数日と奇数日とで和弓と洋弓が交互にできるようになっていた。新婚直後でまだ子供がいなかった頃、夫婦で長くできそうなスポーツだからどちらかやろうという話になった。和弓をやっている同僚に相談したら、「洋弓は当たるようにできているので、どこに当てるかという点数勝負になる。和弓は何本当てられるかという競技で、当たった時の気分は爽快。ぜひ和弓をやるべき」との助言。ではそうしようかと週末に夫婦で通うことになった。
驚いたのは道具である。竹や麻糸でできていると思ったらとんでもない誤解で、弓がグラスファイバー、弦はカーボンブラック、矢はジュラルミンだという。洋弓が顔の前までしか弓を引かないのに対して、和弓は顔の横まで引くので、矢を放った時に頬に弦が当たる可能性があり、まずこれを避けるための引き方(弓の返し方と矢の放ち方)を徹底的に教えられた。弓は引く人の体力に合わせた強さのものがあり、私達のような初心者や家内のような非力な人でもそれなりに引くことはできた。
確かに的に当たるのは爽快で、距離28mの「近的」に加え60mの「遠的」をやることもあり、遠的に当てるのはさらに快感だった。
通い始めてしばらくしたら家内が妊娠したので、結局続けたのは私だけになったが、少しは上達して、先生の勧めで受けた免状付与試験で2段をいただくことができた。
ただ、当初は簡易な弓道場で普段着でもできたのに、数年が過ぎて立派な弓道場に建て替えられ、通う人たちも弓道着を着てやるようになると、着替えも面倒に感じ、敷居が高くなってしまった。やはり和弓はスポーツというより「弓道」だったのである。海外赴任で中断すると、結局そのままやめてしまった。最初に洋弓を選べば良かったのかなあと思いつつ、あの的に当てる爽快感をもう一度味わいたいとも思うこの頃である。
田柄に住んで6年半が過ぎた頃に人事院の短期在外研修でアメリカに半年行った。この時は宿舎をそのままにしていったのだが、戻ってきてさらに2年弱住んで子供たちが6歳・3歳になった頃に、今度はフランスに赴任することが決まって宿舎を退去することになった。ちょうど宿舎の建て替えの話が聞こえてきた頃で、我が家は退去時の修繕をせずに引っ越した第1号となった。
赴任前に家内の実家で数日過ごすことになっていて、宿舎からの引っ越しの日に私が駅前でタクシーを拾って戻ってきたら、同じ宿舎の母親と子供たちが鈴なりになって見送りに出てきてくれていた。胸がいっぱいになり、今でも忘れられない光景である。
その後、建て替えの話が正式に決まって、入居者は少しずつ引っ越していったが、最後まで住んでいた人たちは桜公園でお別れの花見をしたという。建て替えの際には桜も切られることになっており、人とのお別れ、桜とのお別れの花見だったようだ。
この前に住んでいた学芸大学には引っ越し後に何度か立ち寄ったが、田柄には一度も行ったことがない。桜のない田柄住宅を見たらがっかりするだろうから、たぶんこれからも行かないだろう。
(写真解説)
和弓場でお正月明け(1月4日)の「引き初め」の時に当てた記念の品。各写真の右側は「板割」で、文字通り当たると割れる小さな板(11 cm四方)が何枚か用意されていた。的中後にセロハンテープでくっつけ、「昭和62年1月4日 早水輝好」と書かれたものが返された。写真左の左側は「金的」(直径9 cm)と飾り矢で、「天・地・人」の3個が用意されていた。写真右の左側が裏側で、「地 H2.1.4」と書かれており、平成2年1月4日の2番目に当てたものになる。
ちなみに、これらを当てた昭和62年と平成2年に長男と次男が生まれた。縁起のよい「的中」だった。