華山謙先生(2024年3月)
2024年3月13日
小 澤 英 明
先日、テレビで黒部宇奈月キャニオンルートという黒部ダムと黒部峡谷鉄道樽平駅を結ぶ観光ルートができると紹介していた。その番組を見ているうちに、華山謙先生(1939-1985)を思い出した。華山先生には、『補償の理論と現実 ―ダム補償を中心に』(勁草書房)という名著がある。華山先生は、知る人ぞ知る切れ者の本当の学者で、若いながら独創的な仕事を次々になさった方である。私は弁護士になりたての頃、当時勤めていた西新橋の愛宕法律事務所の近くの虎ノ門書房で、仕事の帰り、ときどきそこの本棚を覗いていた。ある日、その2階で華山先生の『補償の理論と現実』に出会った。購入して自宅に持ち帰って読むと、非常に面白い。そこで、華山先生にファンレターを出したのだった。すると、すぐにいつでも研究室に遊びに来なさい、と手紙をもらった。
私は、弁護士の仕事をしていくうちに、都市近郊の山林や農地の所有者が何の労苦もなく大金を手にし、それに群がる人々が多数いることを見て、つくづく嫌気がさしていた。もっと、うまい土地制度があるのではないかと夢想し、土地所有権というものをとことん突き詰めたいなという気持ちがあった。そこで、土地所有権を無理やり取り上げる土地収用と、それに伴う損失補償は私の関心の中心でもあったのだが、当時、法律の本には読むに値するものがなかった。「法律学というものは、とても真理を探究する学問ではないな。学問なんて呼べない。」とも思うようになっていた。そこにダム補償で、現実に向き合い、建設的な提案もされる華山先生が現われたのだから、希望の光が見えたような気がしたのである。
その後、何度か緑が丘の東工大の華山先生の研究室に遊びに行った。そのうちに、都市や環境を幅広く研究したいと思うようになった。もともと、私は、高校3年の5月に文転するまで、理系で建築や都市計画を学びたいという気持ちがあったので、東大の都市工はどうだろうと思うようになった。弁護士にはいつでも戻れると思い、20代は好きなことをしようと思ったのである。東大の都市工を選んだのは、華山先生とは個人的に親しくなっていたので、東工大に進む必要もないと思ったからだが、東大の都市工学科の方が将来の可能性が開けるような気がしたからでもあった。司法研修所で同じ実務修習の班(東京4班)におられた太田剛彦さん(裁判官を長くつとめられ先日亡くなった)が都市工出身であったので、太田さんに相談して、太田さんが私淑されていた下総薫先生を紹介され、都市工の修士課程に入り、下総・岡部研究室に入ったのだった。
東大都市工学科と東工大社会工学科は、当時、単位を交換できる仕組みがあり、私は、華山先生の「資源論」という授業を受けに東工大にも通い、東大に入ったあとも華山先生と親しくさせていただいた。華山先生が損失補償の論文を行政法の本に書かれたときに、華山先生に頼まれて、その原稿を読み、コメントしたこともあった。そのことを論文の最後に謝辞として書いていただき感激したものだった。そのお礼だったのか、先生から緑が丘のおすし屋さんに連れていってもらったことがある。華山先生との関係は、3年ほどだったと思うが、私の20代後半の貴重な思い出である。