顧問早水輝好「雪と海外出張」

コラム第27回

雪と海外出張

2024年2月28日
早 水 輝 好

 今年は元旦に能登半島地震、2日に羽田空港での航空機事故と、災害・事故での幕開けとなった。幸い羽田の事故は乗組員と乗客の冷静な対応で死者が出ず、ほっと胸をなでおろしたが、能登半島地震の被害は当初の予想以上に深刻で長引くものになっている。地震・津波で亡くなられた方々へのお悔やみと、被災された方々へのお見舞いを申し上げるとともに、ウクライナやパレスチナに少しでも早く平和な時が訪れるよう、今年の残りの日々が日本と世界にとって良い方向に向かうことを願う。

 2月に入ると、首都圏では雪による交通などへの影響が見られた。最近は雪の影響が次第に大きくなってきている気がする。
 以前にも書いたが、私の故郷の岐阜市は、太平洋側ではあるがちょうど雪雲を遮る高い山々が切れているところに位置しているので、結構雪が降る。子供の頃は雪合戦や雪だるま作りで楽しんだ。大学生になって東京に出てきたら、わずかな積雪で転倒・骨折する人がいるというニュースを聞いて、都会の人は弱いんだなあと思っていた。(この年齢になると気をつけねばと自戒している。)
 雪にはいい思い出の方が多いが、これまでに2回、大雪による災難に巻き込まれたことがあり、大雪になると必ずこのことを思い出す。2回とも海外出張がらみの話である。災難と言っても今となっては笑い話なので、ご紹介することにしよう。

 1回目は、2013年1月、スイスのジュネーブで開催された、水銀の規制に関する条約の合意を目指す第5回政府間交渉委員会の終了後の出来事である。当時はヨーロッパが大寒波に見舞われており、ジュネーブでも6日間の会期の途中から雪となった。最終日の徹夜交渉の後、1月19日(土)の朝7時に条約案が合意され、日本の提案に基づいて「水銀に関する水俣条約」と命名されることも決定されて会議は無事終了。帰国すべくホテルに戻り、気が緩んでそのままベッドに倒れ込み寝落ちしてしまったところからこの話は始まる。

 「課長、出発の時間ですよ!」とドアを叩かれてびっくりして起きると、確かにもう集合時刻だ。しまった、あのまま寝てしまったんだ、と気づいたがまだ荷造りができていない。「先に行って!追いかけるから」と他の人たちには先に行ってもらい、大慌てで荷物をスーツケースに詰め、雪の中をタクシーで追いかけた。
 幸い、ジュネーブ空港はホテルから近い。何とかチェックインの時間に間に合い、皆に合流して「良かった」と思わずつぶやいたら、「課長、ちっとも良くありません。」と部下の女性係長(m係長)に言われた。雪のために飛行機が飛んでいないというのである。
 待てど暮らせど出発のアナウンスはない。結局その日は多くの便が欠航になり、我々も翌日の便に変更することになった。ジュネーブから日本への直行便はなく他の主要空港での乗り換えになるので、帰国ルートはいくつかあり、すでに代表団の他省の人たちとは別れていた。このため、フランクフルト経由のルフトハンザ航空の帰国便を予約していた環境省職員と民間コンサル会社等のサポート要員、それにたまたま同じ便を予約していた女性記者と業界団体の男性(M氏)の合計15人分をまとめて変更すべく、英語での折衝が得意そうな若手m係長とコンサル会社のベテラン女性を先頭に、窓口に並んだ。
 しかし山のような欠航のため、列がさっぱり進まない。ようやく我々の番になったがそのままストップ。15人分だから時間がかかっているのだろう。後ろに並んでいたM氏が後に語ったところによれば、すぐ後ろのアメリカ人とおぼしき屈強の男が「何をやってるんだ」と怒り出して列の先頭に向かって進んでいき、これはまずい、と思ったという。すると、小柄なm係長が背伸びしてカウンターに身を乗り出して必死に交渉している姿を見て戻ってきて、連れに「まあいいか」と言ってあきらめたそうだ。「彼女ではなく自分が交渉していたら殴られていたかもしれない」とM氏は述懐している。
 長時間の交渉の結果、ようやく翌日の便を予約でき、今度はホテルが必要だ。こういう時は航空会社がホテルを用意してくれることになっており、航空券の交渉と並行して別部隊が別の窓口に並んでいたのだが、こちらの列も全然進んでいない。あきらめて自力でとった方がいいかも、ということになり、列が短かった通常のホテル案内の窓口にまた並んで、自腹にはなったが何とか空港の近くのホテルを15人分確保することができた。近くで夕食をとってホテルに入り、皆休んだ。

 翌日。ジュネーブから無事フランクフルトに飛ぶことができ、成田行きの飛行機に乗り込んだところまでは良かった。だが、離陸する気配が全くない。
 全日空との共同運航便なので日本人の客室乗務員が時々アナウンスを入れてくれるのだが、それによると、翼についた雪や氷を取り除く必要があるという。飛べないのに何で乗せたの?と思ったら、乗客が乗った重さの状態で作業をする必要があるという、よく意味がわからない説明だった。
 しばらくの作業の結果(写真参照)、やはり飛べないということになり、降りられると思ったら降ろしてくれない。今度は、一度ドアを閉めてから飛行がキャンセルになった時にドアを開けるプログラムがなく、うまく開けられない、とかいうまたよくわからない説明。機内食のサービスも手際が悪くて、飛ばないなら無駄になるのだから早く提供してくれればいいのになかなか出してくれず、イライラが募った。
 結局数時間機内に閉じ込められてからようやくドアが開いて解放されたが、再び翌日の日本行きの便の予約が必要だ。空港での交渉だけでなく全日空にも直接交渉してみようということになり、また二手に分かれて交渉の結果、私が担当した全日空ルートが先に機能して、成田行きと同じような時刻に出発する羽田行きの便に変更することができた。
 今度のホテルはルフトハンザがとってくれたが、ここでも問題が起きた。機内預けの荷物は出てこないという。幸い私は日本に到着した時にすぐに着替えようと思っていて1日分を手荷物に入れていたが、同僚の多くは着替えもなく髭も剃れず翌日のフライトに乗ることになった。同じ頃、日本では条約交渉の結果を詳しく聞きたくても交渉団が帰ってこないので、留守部隊がかなりやきもきしていたらしい。

 翌日のフライトは無事に飛んで、2日遅れで羽田に到着。やっと帰れる、と機内預けのスーツケースを受け取りにターンテーブルに向かったら、「すみません、○○さん、△△さん・・・いらっしゃいますか?」と同僚の名前を呼ぶ声。何だろうと思ったら「大変申し訳ありません。エコノミークラスの方の荷物が成田行きの便に乗ってしまったようです。」とのこと。あの成田便だ! 私はビジネスクラスだったので大丈夫だったが、多くのエコノミークラスの同僚は結局また髭も剃れず着の身着のままで役所に帰還したのである。

 長い話になってしまったが、これが1回目の雪トラブルの顛末である。会議の成果もその後のトラブルも大きく、記憶に残る出張だった。
 こんなことはもうないだろうと思ったら、翌2014年2月の海外出張の時に再び大雪に見舞われた。紙面が尽きたので、こちらの話はまたの機会に譲ることにする。
 この時は、非常事態だったがチームワークで分担して複数の対応を考えたこと、またとにかくスピード優先で対応したことがよい結果につながった。「1日分の着替えはできれば手荷物に」と併せて得た教訓である。
 ひどいことが立て続けに起きたのに、悪い思い出ではない。災難ではあったが災害にあったわけではなく、ちゃんと仕事はできて、家にも帰れた。雪の白さが悪い思いを消してくれているのかもしれないと思う。
 ただ、雪国での雪による災害や、被災地での雪はこんな甘いものではないだろう。北陸の被災地に一刻も早く暖かい春が来ることを願って、今回のコラムを閉じることにする。

 

 
翼についた雪や氷を溶かそうとしている作業員
(2013年1月・フランクフルト空港にて機内より)