弁護士小澤英明「哲学の周辺」

哲学の周辺(2023年9月)

2023年9月29日
小 澤 英 明

 先日、大学の駒場のドイツ語で同じクラスだったT君と飲んだとき、「オレは大学に入学した頃、哲学に興味があってね。また、今頃になって、哲学の本を読み始めている。」と聞いて、「そうだったのか。」と感心した。感心したのは、哲学の本は、私は苦手で、敬して遠ざけるというか、要するに、理解できないので、読んでいないのである。教養課程の頃だったと思うが、何とか読もうと思って、いろいろ手にしたが、私が読めたのは、ストア哲学くらいで、キケロとか、セネカとか。これらは、難しい観念的なものではなく、人生訓みたいなもので、読みやすい。
 司法修習生になっても、まだ、自分にしっくりくる「哲学」の本はないかとさがしていた気がする。司法修習生になって、刑事裁判の実務修習は、東京地裁の刑事一部(だったと思う)に配属された。ここには、のちの名古屋高裁長官の神垣英郎部長をトップに、のちの最高裁長官の竹崎博允さんが右陪席でおられた。私と一緒に配属されたもう一人の修習生が、昨年夏まで最高裁判事であった菅野博之さん。そういう大物たちに囲まれていたとは知らず、過ごしていたのだが、あるとき、暇な時間に、私が岩波文庫で多分デカルトか何かのフランス哲学の本を読んでいたら、菅野さんに見られて、「小澤君は、そんな本読んでるの。偉いね。」みたいなことを言われたことがあった。「いや、全然理解できてないんですよ。」と答えればよかったのだが、ただ照れただけだったような気がする。買いかぶられるのもあまりいい気はしないものである。
 その後も、何かと挑戦したが、歯が立たず、最後に挑戦したのが、弁護士を3年やって、東大の都市工の修士課程に入った年の夏だから、27歳の時である。すでに結婚していたが、妻の実家の青森のお寺の離れで、1か月挑戦してみた。世界の名著シリーズの中で、何とか読めそうなのをさがそうとした。結局、多くは、はねかえされたが、プラトンの対話篇は、自分に合っていて、これは、行ける!と喜んだ。理屈がわかるというよりも、会話が、地中海のそよ風を受けて歩く知的な男たちの雰囲気を感じさせて、気持ちのいいもので、こういう書き方もあるのだと開眼した。その後、建築史の鈴木博之先生、写真家の増田彰久先生と共著で書いた「都市の記憶」シリーズで私が書いた部分は、すべて対話篇から学んだというか、影響を受けたものである。他方で、挑戦して、これは歯が立たないと思ったのは、「美学」。これは何ともわけのわからないものだと思った。私のような凡人には、視覚や聴覚などの感覚を離れて「美」は存在しない。ことばにより美を議論しようとする「美学」という世界があることはわかったが、知らずに飛び込んだらえらい目にあう学問である。
 こういう経験があるので、T君が今なお哲学の本を手にして読んでいると聞いて、驚くとともに感心したわけである。私も、見栄を張って、「モンテーニュはいいよね。あれは、よくわかる。」と話をかろうじてつなげたが、モンテーニュの「エセー」は、「哲学」には一般的に分類されていないと思う。T君に「それで、今何読んでいるの?」と聞いてみたら、「神学大全とか。ほらトマス・アクィナスの。」と返事が来た。