都市プランナーの雑読記-その46
森まゆみ『鷗外の坂』新潮文庫、2000.07
2022年6月21日
大 村 謙 二 郎
平成9年に刊行された単行本の文庫版です。元は雑誌「アステイオン」に連載されていたものを単行本にまとめるにあたって、大幅に改稿、加筆をしたものです。
鷗外は膨大な作品を残し、また、その活動範囲はテエベスの大門と言われたように、文学にとどまらず、公衆衛生を含めて、軍医でもあり、歴史家という、まさに多様な顔を持った人でした。
私などはお手軽な文庫本でいくつかの鷗外の作品を読んだだけだから、鷗外について詳しくないのですが、ただ、若くして国家の期待を担ってドイツに留学し、ドイツでも日本の国益を守るため、日本のプライドを守るために果敢に論争を行った人、公衆衛生の専門家として、都市計画に関連する発言をしたことに興味を持っていました。事実、都市計画史の大家の石田頼房先生は鷗外の公衆衛生学からの都市計画への貢献についていくつかの論説、著作を刊行されており、鷗外が都市計画にとっても興味深い人であることは確かです。
私が学位論文をまとめるにあたって東大中央図書館に所蔵されているドイツ公衆衛生協会の機関誌のバックナンバーを繙いたことがあるが、この機関誌は鷗外所蔵のものだったようで、いくつか鷗外の書き込みがあるのを発見して、興奮したことがあります。
さて本書です。森さんは谷中、根津、千駄木、通称「谷根千」の地域雑誌を長年にわたって、編集、刊行された、地域活動に熱心で、東京の歴史的街並み、建築ストック、生活文化の継承、保全活動にも精力的に取り組んで来た人で、東京を愛する人として夙に有名な人です。
森さんが本書で取り組んだアプローチは彼女のホームグラウンドの谷根千ゆかりの鷗外について、彼が散策した地域を巡りながら、鷗外その人ではなく、鷗外の家族、取り巻く人々、ゆかりの人々の事績を辿りながら、鷗外の人物像の多面性を浮かび上がらせるという手法です。
彼女曰く、鷗外については膨大な研究、論説があり、それに目を通す気力もあまりないし、むしろ目がゆがんでしまう。そこで彼女は鷗外の作品と、取り巻く家族、同僚、友人たちに映った鷗外を捉えていくことを採用しています。
掃苔家という言葉があることを本書で知ったのですが、鷗外自身が晩年の歴史小説を執筆するにあたって、ゆかりの人物の墓に参り、その事績を探ることに倣い、森さんも多くの有名、無名の人の墓を訪ね、その人の来歴、運命に思いをはせ、鷗外との関係を描写しており、その探偵ぶりは驚嘆ものです。
鷗外が一度目の結婚で失敗したこと、二度目の結婚までの空白期間、世話をした児玉たまという女性がいたらしいが、その女性についても森さんは思いやりを持った筆致で、鷗外との関係を描写しています。
子供達に平等に優しく接した家庭人としての鷗外、妻と母の間の嫁姑関係の悪化に苦吟、苦闘する鷗外。いろいろ欠陥があったが、市井の人々、職人、女中などに対して、威張らず、対等に接しようとした鷗外など、明治の人のエトスを体現した鷗外を見事に描き出しており、闘う鷗外、家長としての鷗外とはまた違う鷗外像が描かれています。傑作だと思います。