「ピープス氏の秘められた日記」(2021年4月)
2021年4月2日
小 澤 英 明
先日、ジュンク堂池袋店で会計レジに並んでいた。ソーシャルディスタンスで、雑誌が置かれている売り場をぐるっと回ってレジへ進むように指示がある。ふだんは近づかない雑誌の棚に、臼田昭「ピープス氏の秘められた日記 ―17世紀イギリス紳士の生活―」(岩波新書)が1冊場違いに棚に突き刺さっていた。タイトルにひかれて手に取ったが、列が進むので手に取っていた時間は10秒余り。その後忘れていたが、2週間後、ジュンク堂渋谷店(東急百貨店8階)で思い出した。岩波新書のコーナーに行くと、すぐにこの本が目に飛び込んできた。「よほど、私に買ってほしいんだな、この本は。」と思った。
読みだすと、この本が実は大当たりで、久しぶりに読み進むのが惜しいと思った。1982年第1刷、2014年第14刷とある。これは、サミュエル・ピープス(Samuel Pepys 1633-1703)の日記を臼田昭先生(1928―1990)がかいつまんで紹介されたものである。その紹介が何とも味のあるもので、魅力を増している。そもそもこのピープス氏の日記は、他人が容易には読めないようにさまざまの工夫がなされており、基本的には速記で書かれていて、特に女性関係に関する記述は、「ふつうの綴りの文字と文字との間に、余分のものを挿入し、一見支離滅裂と見える文を作って楽しんでいる。」とある。私は知らなかったが、「この日記は作者の日々の生活をまったく偽らず、赤裸々に伝えている点で、世界の奇書の一つと数えられている」とある。死後長年この日記はケンブリッジ大学で眠っていたらしいが、1828年には解読され、1976年に完全版が出版されている。同時代人には読まれたくなくとも、いつかは誰かに読まれたかったものと思う。
この日記がどういうものかを、臼田先生は「海軍省のハリキリ官僚の主人公が、あたりの様子を伺い、手づるをたぐり、他人を押しのけ、出世をはかり、賄賂をとり、金を貯め、妻の目を盗んで浮気をしながら、10年間の世相をこまめに観察・記録する。」とまとめておられる。あとがきで、「ここまでピープスの日記とその生活を略述してきたものの、翻って思うに、内容あまりに猥雑、世人の教化に資することは何一つない。この点まことにお恥ずかしい。」と書かれているが、今から350年くらい前のイギリス人の姿がここまでリアルに示されると、人間は、時代が変わっても、国が変わっても、変わらないものだねと、何となく優しい気持ちになれるのだから、十分、ご紹介いただいた意味がある。臼田先生は、この長大な日記を途中まで翻訳されて急逝されたようである(甲南女子大学教授在職中)。私が賞勲局の局長であれば、臼田先生を叙勲対象にしたかった。奥様も、「なんだか、うちの旦那は、こんなどうでもいい人の日記の翻訳に没頭して、しょうもないわね。」みたいな奥さんではなかったことを祈りたい。
ピープス氏が、賄賂をもらうのを何とか自分の中では正当化しようとしたり、浮気がばれて奥さんにこっぴどくやられたり、時々殊勝にも自らの行動を反省したり、そこらあたりがいかにもおかしい。ニュートンと同時代人で、PRINCIPIAに比するわけにはいかないが、人間の本性を描いた第一級の記録文学かもしれない。