都市プランナーの雑読記-その13
小熊英二『生きて帰ってきた男-ある日本兵の戦争と戦後』2015.06.岩波新書
2020年11月13日
大 村 謙二郎
大変興味深く読み終えました。
小熊さんは歴史社会学が専門で、大量の資料、文献を渉猟し読み込み、大著を刊行されている方です。実は何冊か、買ってあるのですが、あまりの分量で積ん読状態のものがいくつかあります。
この書は新書ですが、それでも、普通の新書に比べると部厚いほうです。
この書は、小熊さんの父、小熊謙二(現存の方)に対する詳細なヒヤリングに基づき原稿を書き起こすと同時に、彼がたどってきた当時の社会、政治経済の状況と重ね合わせて記述することによって、名も無き平凡な庶民が戦中、戦後をどう生き抜いてきたのか、どのような思想信条、あるいは価値観を形成してきたのか、また、その息子である小熊英二がどう受け止めてきたのかを明示的にではないけれど書き込んであり、その点でも大変、興味深く、ユニークな昭和現代史、同時代史としても出色の出来の本だと思います。
小熊謙二は1925年、北海道の佐呂間に生まれましたが、父の事業の関係で、東京に出てきた母方の祖父母に東京で育てられます。1944年11月、19歳になったばかりの謙二は陸軍二等兵として徴兵され入営することになります。すぐに満州に送られ、ここで敗戦を迎えるのですが、侵攻してきたソ連軍に抑留され、シベリアの収容所に送り込まれ、過酷なラーゲリ生活での労働に従事します。
3年間の収容所生活を終えて、1948年8月にようやく帰国できるのですが、新潟にいた父の元に身を寄せたものの、なかなか、まともな職に就くこともできず、戦後の困窮生活で辛酸をなめます。収容所での過酷な生活、戦後の生活の無理がたたり謙二は結核を発症し、結核療養所に入院を余儀なくされます。手術によって片肺がなくなります。ほぼ20代の10年間、人生を棒に振るわけです。
結核療養所退所後もなかなか、まともな職を見つけることができず、苦労をするのですが、徐々に日本経済の復興と本人の努力、まわりの助けなどもあり、彼は徐々に経済的基盤を整え、世帯を持つわけです。
これだけ、書いてみても、謙二は過酷で、悲惨な運命にもてあそばれてきた人なのだと思うのですが、本人は絶望すること無く、状況を冷静に受け止め、希望を失わず何とか高度成長期以降、社会的にはある程度、成功した経済生活を送れるようになります。
謙二は声高に政府批判や戦争批判をするわけでは無いけれども、謙二も含めて多くの日本の一般庶民、名も無き人々、あるいは当時の日本軍に徴用された中国、朝鮮の人々がなめた苦労に対する思いは強く、戦争に重要な関わりを持った天皇や当時の政治家、官僚たちがちゃんとした責任を取らなかったことに違和感を持ち続けています。
そして、老年になって、ふとした偶然で知り合うことになった朝鮮人の元シベリア抑留者と共に戦後補償裁判にかかわることになります。謙二が裁判所で読み上げた「意見陳述書」が本書で引用、記載されていますが、感動的な文章でした。
謙二は本書刊行時点で、90歳を超え、体力は衰えてきたようですが、それでも今でも地元の環境運動、市民運動等に関わりを持っているようです。たいしたものです。
ドラマチックな人生だと思うのですが、謙二は、淡々と、しかし、抜群の記憶力で細部にわたり、当時の事情を思い起こし、息子、小熊英二の質問に答えながら、彼の人生を振り返っており、これも感動的でした。
月並みですが戦争がもたらした災禍、負債はまだまだつづいているし、安易に戦争、軍事を語ることがあってはならないと思います。