コラム第2回
学芸大学
2020年5月12日
早 水 輝 好
前回はふるさとの岐阜の話を書いたので、次は今住んでいる三鷹の話を書くつもりだったが、せっかくなので上京してすぐに住んだ目黒の話を挟むことにする。
大学に合格して岐阜から上京したのは1977年(昭和52年)のことである。それまで実家から出たことのなかった私はドキドキの上京だった。食事作りなど全くできないので、母は「できれば賄い付きの下宿に」と言っていたのだが、ちょうど大学生協で当時ですらまれにしかなかった賄い付き下宿を見つけたので、そこに住むことにした。
最寄り駅は東急東横線の「学芸大学」駅である。「学芸大学」とは東京学芸大学のことだが、実は大学はとっくの昔に移転していて、駅名だけが残っているのだと大家さんから聞いた。駅から東西に商店街が軒を連ね、「鷹番」という地名がついていた。昔このあたりに鷹狩り場の監視に当たる「鷹場番所」があったことに由来するらしい。商店街には八百屋、定食屋から本屋、レコード屋に至るまでなど何でも揃っていて、学生生活に不自由はなく、商家出身の私は賑やかな街の雰囲気が好きだった。
私が住んだのはその鷹番の商店街を過ぎて住宅街に入った「中央町」という味も素っ気もない名前の町の「3畳一間の小さな下宿」であった。賄い付きだから部屋は狭くてもいいや、ということにしたのである。ただテレビだけは見たくて、実家から小さな白黒テレビを担いで上京し、押し入れに突っ込んで見ていた。
大家さん一家が1階に住み、2階に3畳の部屋が6つあって5~6人の学生が生活していた。食事は平日の朝晩、大家さんの台所兼食堂に降りて食べた。おばあさんが若かった頃にご主人が亡くなり、息子と2人暮らしになったので寂しさを紛らすために学生を住まわせることにしたとのことで、それから20年以上が過ぎて息子夫婦と小学生の孫の4人家族になっていたが、帰りが遅くなるときは頼んでおけば夕食を残しておいてもらえるし、洗濯までしてもらえるという至れり尽くせりの有り難い下宿だった。
そこで大学院まで6年暮らして環境庁への就職が決まり、さすがに賄い付きはやめようとすぐ近くの4畳半のアパートに移った。新しい大家さんはアパートの隣に住む一人暮らしの老婦人だったが、姪御さんが時々来ているようであった。上品で親切な方で、家賃を払うときはいつもお茶とお菓子をごちそうになり、2年後に結婚して引っ越す時にはお祝いまでいただいた。
その大家さんとは毎年年賀状のやりとりがあり、20年ほどして返事が来なくなったので老人ホームにでも移られたのかなと思って賀状を出すのをやめたら、しばらくして訃報が届いた。結婚祝いをいただいていたこともあり香典を送ったところ、姪御さんから見覚えがあるお菓子が香典返しで送られてきた。Matterhornという、学芸大学駅の近くの洋菓子屋さんのお菓子だった。
そのお店のお菓子に思いがけないところで遭遇したのが2年前のこと。ある会社の記念祝賀パーティーのお土産で配られたのである。会社の所在地とは関係がないので不思議に思い、後で聞いたら、会長一家が以前学芸大学駅の近くに住んでいて、息子さんがそこのケーキをよく食べていたのだという。結構地元では有名店だったんだとその時に初めて気づいた。
息子さんに聞くと、どうやら通学に学芸大学駅を利用していた時期と私が住んでいた時期が重なっていたようで、「どこかですれ違っていたかもしれませんね」という話になり、そういえば就職した直後に、大学の天文部の後輩から、私が駅に向かって疾走しているのを見たと言われたこともあったなあと思い出した。卒業後に地元に帰って教師になったその後輩はこの4月から母校の校長になり、会長の息子さんは社長になった。光陰矢のごとしである。
結局、学芸大学駅界隈で約8年暮らしたことになるが、引っ越してしまうと東横線を使う機会はほとんどなくなってしまった。それでも仕事などでたまに乗ると何となく懐かしく感じられ、学芸大学駅で途中下車して散策したこともあった。商店街は相変わらず活気があったが、時が経つにつれお店も変わり、何年か前に立ち寄ったときには果物屋と古本屋ぐらいしか覚えている店が残っていなかった。最初の下宿はおばあさんが亡くなられた後に引っ越されて別の家が建ち、次の下宿も再開発で更地になっていた。自分も年をとったのだから仕方ないが、東京でのふるさとがなくなったようで寂しかった。
思えば、ここでの生活を皮切りに東京での人生が始まって、いろいろな人との縁ができたし、職と新しい家族を得たのもここにいた時だった。また機会があれば途中下車して散策し、駅の反対側なので今まではチェックしていなかったMatterhornを今度はちゃんと訪問して、お菓子を買って帰ろうと思う。
東横線・学芸大学駅(東急電鉄HPより)