「文学」以前(2019年10月)
2019年10月29日
小 澤 英 明
私は、昭和31年(1956年)2月に長崎県佐世保市潮見町で生まれた。佐世保駅の近くで、佐世保港が見えるところが父親の実家だった。その後幼稚園の1年だけ佐賀市に移ったものの、小学校1年から6年までは、佐世保市の山手小学校に通った。中学校からは鹿児島市のラ・サール中学だから、私の故郷の思い出は小学校の思い出である。
昭和39年(1964年)の東京オリンピックは、私が8歳の小学校3年生の秋で、その頃のことは鮮明に覚えている。聖火リレーは、純な小学生を興奮させるもので、新聞紙を丸めてトーチに見立てて、走り回るなんてことがはやった。私にとって、その東京オリンピックが思い出深いのは、その時にはじめて大病したからでもある。ある日、小学校の運動会の練習があったときに、隣のクラス担任の女性のI先生が、私の顔をのぞきこんで、「小澤君、少し顔がはれているみたい。うちに帰ったら、お母さんに先生からそう言われたと言って、病院に行った方がいい。」と言われた。両親は、毎日私を見ているので気が付かなかったようだが、I先生の指摘を受けて、すぐに潮見町のT医院に私を連れて行った。急性腎炎の診断が下った。それからは、1か月絶対安静、塩気のある食事は禁止だったが、この1か月が東京オリンピックの開催時期と重なった。不幸中の幸いで、オリンピックの中継番組見放題ということになった。急性腎炎は、両親の献身的な介護のおかげで、1か月で完治した。今でも、あれは何だったのだろうと、信じられない気持ちだが、痛みも何もなく、ただ、塩気のない食事がいかにおいしくないかを実感した1か月だった。
オリンピックの中継番組と同時に楽しみだったのは、寝ながら講談社の少年少女世界文学全集を読むことだった。ちょうどその少し前だったと思うが、父親がこの全集を定期購入してくれた。毎月届く本が楽しみで、この全集は私の人格形成に何よりも影響を与えたのではないかと思う。私には兄と妹がいるが、二人はこの全集には興味がないようで、奪い合いにもならず、私一人が熱中した。私にとってのベストスリーは、十五少年漂流記、ドリトル先生物語、わんぱく小僧ジャンの日記で、十五少年漂流記は、7,8回は読んだはずである。ブリアンとかゴードンとか、これらの名前の人は今でもいい人のように思える。
小学校6年になると、少年少女世界文学全集は、ほぼ読んでしまい(おもしろくないものは読んでいないが)、そろそろ、大人の世界文学も読まねばならぬという気になった。そこで、夏休みに何か有名な世界文学をひとつ読んでやろうと決心した。何でもよかったのだが、パール・バックの「大地」を選んだ。これが大きな選択ミスで、何とか読み進めようとしても理解ができない。キーワードが「売春宿」だと思った。要するに、これが何かわからないから理解できないのだと思った。そこで、母親に聞いたが、母親の説明は要領を得ず、辞書を引いても「売春」が「春を売ること」みたいなひどい説明だったように思う。結局、この小説を理解する前提を欠いており、読み進められなかった。実は、どうしたら子供が生まれるかを私が知ったのは、ラ・サール中1の同クラスの悪友O君からであり、小学校時代は知らなかった。知らなくてもラ・サール中には合格できたわけである。