インタビュー早水 輝好

岩瀬香奈子さんにインタビュアーになっていただいて、当事務所顧問の早水輝好先生にインタビューをしていただきました。岩瀬さんは、株式会社アルーシャの代表取締役であり、その事業において難民を積極的に雇用されるなど難民の支援に熱心に取り組んでおられるとともに、長年弁護士のヘッドハンティングにも従事され、弁護士業界に通じておられます。

岩瀬:早水先生が環境庁に入られたのはいつですか。

早水:昭和58年、1983年です。

岩瀬:環境庁は早くから志望されていたのですか。また、志望された動機をお聞かせください。

早水:元々、公害問題に関心があったので、その解決に貢献できる地方公務員や国家公務員は有力な志望先でした。地方公務員の方が現場に近くやり甲斐のある仕事ではないかとも思ったのですが、環境庁に勤めている先輩に勧められたこともあり、環境庁に入りました。

岩瀬:大学は東京大学の化学工学科とうかがっていますが、大学入学時点から環境庁で働くことは視野に入っておられたのですか。

早水:明確に「環境庁で働きたい!」というほどではありませんでしたが、中学生の頃から化学に興味を持っていて、年齢と共に公害問題への関心が高くなっていき、「公害を発生させるのは化学だが解決するのも化学だ」と思っていたので、環境庁での仕事は選択肢の一つと考えていました。
また、学生時代に読んだ田尻宗昭さんの著書にも影響を受けました。田尻さんは四日市などで産業公害事件を追及し「公害Gメン」と言われた方です。元滋賀県知事の武村正義さんの著書にも影響を受けました。琵琶湖の水質保全対策を進めた方です。公害関連の書籍を読む中で、私も一層公害への問題意識を高く持つようになりました。実は学生時代に新聞に意見投稿を出した程です。

岩瀬:大学時代に特にどういうことを勉強されたのですか。

早水:1,2年は教養課程の勉強をするのですが、化学工学科の西村肇先生のゼミ(全学ゼミ)が毎週土曜にあったので参加して実験などをしていました。そのまま化学工学科に進学し、卒論は千葉県の手賀沼の水質汚濁に関することで、窒素の除去プロセスについて研究しました。

岩瀬:修士課程を経て環境庁に入られたとうかがっていますが、修士論文のテーマはどういうものだったのですか。また、どうしてそれを選択されたのですか。

早水:西村先生から「修士論文は卒論とテーマを変えた方がいい」と言われたので、以前全学ゼミでやっていたことに関連して、大気汚染に関することで、平たく言えば、畳が二酸化窒素を吸収するらしいということに着目して、い草による二酸化窒素の吸収反応について実験し、研究しました。

岩瀬:指導教官はどういう先生だったのですか。

早水:修士論文の直接の指導教官は柳沢幸雄先生で、現在は開成中学・高等学校の校長として有名な方です。シックハウスなど室内大気汚染研究の第一人者です。
大学でご指導いただいた西村肇先生は大変ユニークな方で、「真実の探求」に関心がある方でした。瀬戸内海の汚染や大気汚染に取り組まれ、退官後に水俣病の原因となった工場排水の解析に関する著書も出されていますが、他方、遺伝子操作に取り組まれたり物理学の本を出されたりもしています。学生にはいろいろなことをやらせてくれたので、お陰で私も自身の関心あるテーマに向き合うことが出来ました。

岩瀬:環境庁の同期の方は、事務系、技術系でそれぞれ何名だったのですか。

早水:いわゆるキャリア組は合計9名で、行政・法律系2名、技術系4名、自然保護を主に担当する造園・生物職が3名でした。

岩瀬:技術系の方々は、かなりご専門は分かれていましたか。

早水:そうですね。物理、化学、衛生工学と様々でした。学生時代の研究がそのまま活きるということでもなく、入省当時は新人として様々な業務に従事しましたが、関連の業務に就いて役に立ったこともありました。

岩瀬:入省当時の日本の環境問題というとどういうものでしたか。

早水:オイルショックの後で、経済回復への注目が集まっており環境が蔑ろにされがちな時代でした。環境影響評価法の法制化ができなかった頃で、行政指導ベースの手続きに留まったことなど、課題が多かったです。

岩瀬:その多くは既に解決していますか。

早水:そうですね、新幹線騒音や水・大気汚染など、私の学生時代に連日ニュースになっていた公害問題は今は殆ど聞かれません。そういう意味では多くは解決していると言えますね。ただ、アスベストとか光化学オキシダントとか解決していない問題もあり、逆に、瀬戸内海では赤潮を減らすために栄養塩を減らしすぎたので魚が捕れなくなったりノリの色落ちが起きているのではないかと言われるようになりました。魚が捕れなくなったのは栄養塩の減少が原因なのか、それとも海水温の上昇など他の原因なのか、解明には至っていません。

岩瀬:2018年夏に環境省の水・大気環境局長を最後に退官されるまで、環境庁から環境省へと組織も大きくなっていったと思いますが、組織としてどのような変化がありましたか。

早水:元々は厚生省(現厚労省)、経済企画庁、通産省(現経産省)等に分散していた公害問題への対応として環境庁が発足し、さらに廃棄物・リサイクル対策なども含めて環境保全対策の一元化を図るために環境省となりました。他にも化審法(化学物質審査規制法:化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律)等、共同所管になったものもあり、時代に沿って、環境省が大きくなって来たのだと感じています。身近なペットの問題も総理府から環境省の担当に変わっています。その後、原発事故後の除染なども担当するようになり、現在の環境省の大きなテーマは「地球環境問題」「廃棄物・リサイクル対策」「放射性物質汚染対策」でしょうか。

岩瀬:早水さんはどういう部署でどういう仕事をされてきたのですか、また特に思い出深いお仕事はどういうものでしたか。

早水:大きく3つの分野の担当となったのですが、化学物質対策に約16年、水・大気汚染対策に約11年、環境アセスメント関連に約6年です。
多くの業務を担当したので簡単に話しきれませんが、印象的な仕事の1つは、1997~99年頃のPRTR(環境汚染物質排出移動登録)制度の法制化とそれに続く2001年~03年頃の化審法の改正による生物への影響評価の導入です。それまで日本は人の健康を守るという観点が強く、化学物質から人の健康のみならず生物を守るというルールは欧米にはありましたが日本にはありませんでした。餌になる生物がいなくなって、鳥も鳴かなくなるような状況、まさに『沈黙の春』の世界ですね、そんな状況が人にとっても良いはずはありません。ようやく日本も欧米に追いつくことができました。 2つ目は、水銀に関する水俣条約の制定に貢献できたことがとても印象深いです。全ての交渉会議に参加し、条約をまとめることが出来たことは達成感がありました。
もう1つ印象深い仕事は、千葉市に2年間出向したときに公害事件にあたったことです。JFEスチール社のシアン化合物排出とデータ改ざんのニュースは覚えていらっしゃいますか?あれは大変な仕事でした。最初の事件発覚後もいろいろと会社側の対応に不備があり、結果、法に基づく命令や指導文書を複数出すに至りました。また、改善命令を受けて上がってきた改善計画案について、役人だけでは判断できないと思って、審議会の中に専門委員会をつくり専門家に見ていただいて、計画案の不備を指摘して修正させることに繋げました。最終的には大気汚染防止法や水質汚濁防止法の規制が強化されることになりました。

岩瀬:外国にもいらっしゃっていますが、いかがでしたか。

早水:1994年からパリのOECD(経済協力開発機構)に赴任しましたが、直前に地球サミットもあり、1991年~92年に米国に半年間滞在して語学のブラッシュアップもしました。学生の頃から英語は好きでしたが、仕事で使う英語はレベルが高く、国際公務員として恥ずかしい英語を書くわけにいかないので、パリでは家庭教師の先生に書いたものを直してもらうなど真剣に勉強しました。
OECDへの赴任の舞台裏ですが、当時、それほど海外に行きたいという気持ちがなくて前任者に言われたときに最初はお断りしたのですが、環境庁は小さい役所なので、赴任条件に合った候補者は冷静に考えると自分しかいないなあと思い直して、赴任を引き受けました。私は覚えていないのですが、パリ赴任が決まり家族に伝える際、「ユーロ・ディズニーに行くか」と言ったらしく、未だに家内に言われます。また、私は赴任時は自動車の運転ができず、その点は問題ないと言われていたのですが、結局現地で運転免許をとることになりました。
OECDでは1997年夏までの3年8か月間業務にあたりました。化学物質の安全性をチェックするルールが国ごとに違うと貿易の際に問題になりますので、これを国際的に統一することがOECDの重要なミッションの1つです。私もリスク評価手法の国際的な調和などに取り組みました。

岩瀬:早水さんが現在、日本の環境政策で遅れていると思われるところ、また、もっと進めていかなければならないと思われるものはどういうものでしょうか。難しさがあるとすると、どういうところにあるのでしょうか。

早水:そうですね、温暖化対策でしょうか。これは難しい問題ですね。少し古い話ですが、大気汚染対策について、米国でいわゆるマスキー法が提案されたときに日本のホンダが最初に基準に見合う技術を開発するなど、高い目標設定が技術開発を促進する面があるので、それを期待しています。ただ、二酸化炭素の問題は個人の生活にも大変影響されることなので、高みを目指すには究極的には「個人個人がどこまでがんばれるか」という面もあり、なかなか大変だと思います。

岩瀬:早水先生個人では環境政策のどういうところに現在ご関心が高いですか。

早水:関心は汚染対策としての生物多様性の保全ですね。先ほどもお話ししたように、特に日本では化学物質対策や水環境保全対策において、生物への影響に対する意識が低いように感じています。とても残念なことです。審議会かどこかで「カゲロウが死んで何が悪い」という発言が以前あったと聞いていますが。生物や生態系への影響は、回りまわって生態系の中に生きている人間にも大きな影響を及ぼしかねません。この点を産業界も含め全ての方々にもっと意識していただきたいですね。

岩瀬:ESGとかSDGsについてはどのように考えておられますか。

早水:企業が環境問題に本気で取り組み始めたことは大変良いことだと思います。これまで「事件が起こり規制をつくる」というような、どうしても後追いが多かったのですが、「未然防止の対策」やさらに前向きの対策は是非進めるべきだと思います。

岩瀬:日本が諸外国の環境保護に貢献することはできるでしょうか。また、日本の環境政策で世界に誇れるものはどういうものでしょうか。

早水:例えば、フィリピンのリゾート地のボラカイ島でゴミや汚水の垂れ流しがあって一時閉鎖されたという問題がありましたが、「50年前の日本」という印象を持ちます。こんなことを繰り返さないよう、日本が手伝えることは沢山あります。ただ、実際は経済性の問題なども絡んでくるので、一筋縄ではいきませんが。

岩瀬:早水先生の子供の頃のことをお聞きしたいのですが、どういう子供でしたか。

早水:自分で言うのも変ですが、「勉強のできる良い子」でした(笑)。地方でしたし、当時は今と比べると、とてものんびりしていましたね。6歳上の兄の影響が大きく、真似をして、将棋をしたり天体観測をしたりしていました。私は岐阜市の出身ですが、長良川など自然もそこそこにあり、文字通りのびのびと育ちました。

岩瀬:中学や高校の頃はいかがでしたか。

早水:ちょうど岐阜は東京や愛知の真似をして高校入試に「学校群制度」を導入したタイミングで、少し混乱していた感じですね。結局勉強ばかりしていたような気がします(笑)。

岩瀬:土日とか休日とかは現在どう過ごされていますか。また、趣味は?

早水:今は将棋もコンピューターが強くなって、戦法も昔と変わりあまり面白くなくなってきました。そこで、ボケ防止も兼ねて、1年半前からピアノを習い始めました。ピアノは以前に3か月ぐらい習ったことがある程度で、ほぼゼロからのスタートです。クラシックより好きな歌謡曲やフォークを弾きたいので、それを教えてくれるピアノ教室を選んで通っています。自分の好きな曲の初級向けの楽譜を探してきて先生に指導してもらうのですが、「地上の星」から始まって「翼をください」とか「卒業写真」とか、「津軽海峡・冬景色」なんてのもあります。実は4月に教室の発表会があるので、今は週末の練習に熱がはいっています。今までの発表会は幸い(?)仕事が重なったのでうまく逃げてきたのですが、今回は逃げ切れず初めての発表会になるのでドキドキです。

岩瀬:早水先生が大事にされていることと言いますか、座右の銘のようなものがありましたら、お聞かせください。

早水:そうですね、仕事の仕方については「頼まれたことは断らない」ようにし、その結果として「少し難しいことに取り組む」ようになりました。政策の方向性を決めていくに当たっては、いろいろな立場の方々の意見を聞いて、より多くの人が納得できる「常識的」な結論になるように努めました。
あとは、「人生は良いこと半分、悪いこと半分」と思っています。人生には色々なことがあって、良いことだけでも悪いことだけでもありませんよね。こう考えているせいか、ひどく落ち込むことはありませんね(笑)。

岩瀬:小澤英明法律事務所顧問の鷺坂先生とは環境省時代一緒にお仕事はされていましたか。鷺坂先生はどういう先生ですか。

早水:直接上下関係になって仕事をさせていただいたことはありませんが、何度か近くでご一緒した感じでは「優しくて部下の話をよく聞かれる方」という印象でした。

岩瀬:このたび早水先生も小澤英明法律事務所の顧問に就任されて、どのような抱負をお持ちですか。

早水:貴重な機会をいただき、ありがたいです。環境問題の解決や困っている人を助けることに繋がる取り組みはとても嬉しいので、貢献できればと思います。

*ご参考:
田尻宗昭著書:「四日市・死の海と闘う」「公害摘発最前線」
武村正義著書:「水と人間」
西村肇著書:「水俣病の科学」「自由人物理」
レーチェル・カーソン著:「沈黙の春」