「一村一品運動」顧問鷺坂長美

一村一品運動

2020年4月6日
鷺 坂 長 美

 「桃栗植えてハワイに行こう」というスローガンを聞いたことがあるでしょうか。大分県の大山町(現在は日田市大山町)の地域づくりの標語です。当時の町長さんが「山間部の田畑で米を作っても若者が定住しない、収益をあげる産業があれば、農村でも文化的生活が楽しめる」ということで1961年ごろから始めた運動です。梅、栗を植えて現金収入を得、ハワイ旅行をしようというものですが、まだ海外旅行が一般的ではなかった日本で町民のパスポート保持率が大変高い町としても有名になりました。その後安定した収入が必要ということで1970年前後からえのきだけ栽培に挑戦して成功し、梅の加工工場等ユニークな取り組みは今でも続いていると聞きます。
 私が大分県の地域振興課長に就任したのが1985年です。平松知事が「一村一品運動」を提唱して6年目になっていた頃ですので、県内各地では「うちの特産は〇〇だ、うちの名物は〇〇だ」という声を多く聞きました。宇佐市のランタン、姫島村の車エビ、大田村の生しいたけ、国東町のキウイフルーツ、日出町の城下カレイ、別府市の竹細工、佐賀関町の関アジ、関サバ、臼杵市のカボス、津久見市のサンクイーン、米水津村のイワシの丸干し、玖珠町の吉四六漬け、安心院町のスッポン、耶馬渓町のお茶、中津江村の鯛生金山、杵築市の武家屋敷などなどです。県産品ということでは焼酎造りもそうです。もともと大分県は、江戸時代には日田市に天領があって県内は小藩分立、まとまりが悪い、何か新しいことを始めるときに足の引っ張り合いをする、と言われていました。そこを逆手にとってそれぞれの地域で特産品を作って競い合おうということです。課長就任時には知事から「これまでは特産品づくりでよかったけど、これからはそれを担う人づくりだ」と言われました。
 手始めに地域づくりで既に有名になっていた湯布院の映画際に行ってみました。映画際には九州全土のみならず東京からも人が集まっていて湯布院の街はまるで別世界です。封切り前の「ひとひらの雪」も上映されました。映画際をはじめたころは上映する映画を集めるのに大変苦労したそうですが、大ヒットした「お葬式」が封切り前に湯布院映画祭で上映されたことから封切り前の映画が配給会社から売り込みに来るというほどになったといいます。懇親会には映画評論家の白井佳夫さん、監督の根岸吉太郎さんも加わり、映画の深みに感銘したことを記憶しています。懇親会後は宿泊施設へ引き上げますが、当時それほど多くない旅館に定員以上のお客を容れるため、映画際の期間中は相部屋雑魚寝が当たり前です。皆映画好きでとても寝させてはもらえません。こちらは知識もなく映画好きの玄人はだしの議論につきあって徹夜です。映画際の実行委員をされていた亀の井別荘の中谷健太郎さん、旅館玉の湯の溝口薫平さんたちのお話しを聞く機会もありました。ゴルフ場開発に反対してできた「明日の由布院を考える会」の活動や自然を守ろうとはじめた「牛一頭牧場運動」、「牛喰い絶叫大会」から、「映画館のない映画際」「音楽堂のない音楽祭」など、まさに地域づくりの最先端を行っている町でした。
 こうした先人方のご指導等もあり、地域で頑張っているリーダー、担い手に光を当てることで一村一品運動の第二フェーズとして「人づくり」に貢献できるのでは、と各地のリーダーを講師とする「地域づくり懇談会」を各地で企画、実施しました。しかしなんといっても大分方式の「地域づくり」と言えば、焼酎片手に車座になっての議論です。そこでのアイデアなどが大きく花咲くこともありましたし、また、若手との会合では、今でいう「モチベーション」をあげることにも貢献したのでは、と思います。当時かかわった方々は数えきれないくらいです。大変お世話にもなり、私自身も様々な面で感化を受けました。つい最近まで年賀状のやり取りをしていた方もいます。
 「平成の大合併」で大分県の市町村数は58から18に激減しています。当時の一村一品といっていた町や村の特産品も合併により一地方のものになってしまっています。今では大分県でも「一村一品」という言葉自体があまり聞かれません。少々寂しい気持です。

(平松知事の執筆による「一村一品のすすめ」)