「マリア・ジョアン・ピリス」弁護士小澤英明

マリア・ジョアン・ピリス(2019年2月)

2019年2月27日
小 澤 英 明

 1944年ポルトガル生まれの女性ピアニストである。この1か月ほど、このピリスによるバッハのピアノ協奏曲集(1番、4番、5番)ばかり聴いている。年が明けて、渋谷のタワーレコードにCDをさがしに出かけた。ところが、これまで7階のフロアーのほぼ全体を占めていたクラシック売り場が半分くらいに減ってしまっており、「タワーレコード、お前もか。」みたいな気分になった。それでもなお相当量の商品である。ケフェレックのボックスものを見つけ、そのあとバッハのCD売り場に向かった。いろいろ見ているうちに、ピリスによるバッハのピアノ協奏曲を見つけた。1974年録音のもので、かなり古いが、聞いていなかったので、購入した。
 ピリスは、私より一回り年長で、私がクラシック音楽に熱中しはじめた大学生時代、既に世界的に有名なピアニストだった。実は、大学生時代か修習生時代か忘れたが、ピリスの演奏会に出かけて、ふられたことがあった。ピリスが体調不良でコンサートがキャンセルになったのだった。ホールのある建物の入り口でその知らせを見て、茫然とした記憶がある。その後、ピリスはコンサート活動を停止したが、やがて復活し、以前にもまして、高い評価を得るようになった。ただ、私自身はピリスのいい聞き手とは言えなかった。バッハのパルティータの入ったCDやシューベルトのCDなど、購入して好ましいとは思っていたが、熱中するほどではなかった。しかし、今回購入したCDには今熱中している。
 最初のバッハのピアノ協奏曲第1番の第2楽章など聞くと、一つ一つのタッチの強弱もそうだが、一つの音を出してから次の音を出すまでの時間により、無限の演奏の可能性があることが実感させられる。なぜ、こんなに惹かれるのか考えているうちに、大学生時代に、「音楽現代」という雑誌に、名演奏かどうかは、その判断基準を共通にする人の間でしか議論できないのではないかと、読者投稿欄に投稿したら、それが採用されたことがあったことを思い出した。これは、当時、駒場のクラスで一緒だった友人U君と何か議論していて、議論が正しいかどうかは、その前提の判断基準が共通でないと判断できないという結論に達し、その議論を音楽の演奏に適用しただけのもので、本質的なところはU君の議論の受け売りだったと思う。なぜ、投稿したのかだが、当時、私が一番好きだったバレンボイムのピアノ演奏をくさす音楽評論家がその雑誌によく出ていて、バレンボイムの才能の1万分の1も才能がないような男が何を偉そうなことを言っているんだといつも思っていたので、「それは(才能もない)アンタの好みでしかないだろう」と言いたかったのである。
 というわけで、好みでしかないし、このピリスの演奏を評価する前提の要素をいくつ並べても並べきれないだろうし、その要素を解析する力もないが、人間の好き嫌いは、こういう無限の要素から成り立っているように思う。ピリスは昨年で演奏活動をやめて、これからは後進の人たちの教育にあたるらしい。10年ほど前、NHK教育の「ピレシュ(ピリスのこと)のスーパーピアノレッスン」という番組で、若者を指導しているピリスの映像が流れたことがある。美しい夏の情景をバックにした良い番組だった。