鷗外の花 (2025年6月)
2025年6月2日
小 澤 英 明
先日、書店で青木宏一郎「鷗外の花」(2024年八坂書房)という本が目にとまり購入した。青木さんは、千葉大園芸学部を卒業されて、ランドスケープデザイナーとして活躍され、江戸の園芸の本などすでに多数の著書をものされている。この本は、鷗外の著作や日記で庭木や草花に言及されている箇所を網羅的に整理したものである。青木さんは、文京区立鷗外記念本郷図書館で半紙四枚に記された「花暦」(はなごよみ)を目にしたことから、鷗外のガーデニングに注目されたとのことである。紹介されている「花暦」は、発表を目的にはせず、鷗外の楽しみで書かれたものである。おそらく庭の花の開花に気づくたびに鷗外が書き留めたものと思われる。日にちと花の名前だけがメモ的に記されたもので、鷗外全集にも収録されていないとのこと。青木さんが、これに触発されて書かれたこの本は、ガーデニング好きにはありがたいものであり、青木さんでなければ書けなかったものと思う。
鷗外は、東京都文京区千駄木の自宅(観潮楼と呼ばれていた。現在の千駄木1-23-4に当たる)で花畑を何ヶ所にもつくって、ガーデニングを楽しんでいた。鷗外がこの屋敷に引っ越したのは1892年30歳のときである。父親も母親もこの千駄木の家に同居しているが、両親ともに大の植物好きだったことがこの本でわかる。鷗外の博覧強記は、植物の知識でも例外ではない。好きだから乾いた地面に水がしみ込むように知識が吸収されているのだろうが、史伝の「伊澤蘭軒」の執筆において、蘭軒の日記にある植物が調査してもどうしてもわからない時は牧野富太郎に教えを乞うている。
この本には千駄木の建物の間取りが掲載されている。鷗外の著作からだけでなく、鷗外の長女の森茉莉の「父の帽子」などの作品からの引用もあり、この屋敷の全体像と鷗外一家の暮らしがわかるように書かれている。建物は大きく、庭も広く、数多くの樹木や草花が植えられている。誰が雑草取りをしていたのか気になるところだが、多忙な鷗外も庭に出て「庭を治す」(ガーデニングの鷗外流の表現である)作業を行なっていただけでなく、鷗外の両親も草花の世話に精を出していたことがわかる。鷗外の妹喜美子の日記に「母の峰子は、暇な時はしじゅう庭に出て草むしりをしていた」と記載があるらしい。千駄木の建物図面の北側の門(団子坂に出るところ)近くに、「馬小屋」と「馬丁部屋」とある。母屋からは離れている。鷗外の有名な写真に、軍服で門の出口で、馬の手綱を馬丁が手にして、鷗外がステッキをもって立っている写真がある。この家のことは、調べてみると、鷗外の次女の小堀杏奴の「思出」(岩波文庫「晩年の父」所収)にも相当に詳しく書かれている。「思出」によると、鷗外は馬で通勤していたとのことである。
5月末から自宅の庭のヒメシャラの花がたくさん庭に落ちるようになった。ヒメシャラとシャラ(沙羅)は非常によく似ている。花の大きさや幹の色や葉のかたちから、まず間違いなく我が家の木はヒメシャラだと思うが、少し自信がない。毎年6月になると、ポップコーンのような小さな白い花が木の周りにたくさん落ちる。ポップコーンというのは、やや悪口になる。つまり、完全に白色ではなく、少し痛んで茶色の部分があり、遠目で見るとポップコーンに似ているのである。ヒメシャラの木もシャラの木と同様にかなり高木なので、花の多くは、高いところにあり、咲いているところを楽しむならば、二階からでなければならない。我が家のヒメシャラは、玄関近くにあり、通勤の朝に地面を見て花が咲いていることに気づくといった具合で、それまでは花が咲いていることに気づいたことがない。しかし、地面の上の花では少し痛んでいるので、ややかわいそうなところがある。ヒメシャラからすると、「どうして『わたしが一番きれいだったとき』を見てくれなかったの?」ということになるからである。もちろん、二階から木の上部に花がたくさん咲いているところを見ると、きれいに咲いているのがわかるのだが。花は一日しかもたなくて、すぐ散るらしい。鷗外には「沙羅の木」という有名な詩がある。
「褐色(かちいろ)の根府川石(ねぶかはいし)に/白き花はたと落ちたり/ありとしも青葉がくれに/見えざりしさらの木の花」
そう、落ちるまでわからないんだよね。下からは葉に隠れていて。写真は、我が家のヒメシャラの花。6月1日撮影。玄関先でちょうど垂れ下がった枝に花が咲いていて、うまく撮れた。
庭のヒメシャラ